昨日「認知症」検査。結果は無罪放免でした。やれやれ。(哲




2014ソスN12ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 04122014

 銀閣も耳の後ろも冬ざるる

                           柳生正名

閣は金閣に比べて地味で渋い味わいの寺である。数年前に雪の京都を訪れたことがあるが、金閣は絢爛、銀閣は雪が暖かく見えるほどひっそりと静まり返ったわび姿だった。「冬ざれ」は冬枯れのさびしく荒涼たるさま、と歳時記にある。冬ざれの中に佇む銀閣は銀沙灘と向月台とそぎ落とした簡素なたたずまいが特徴なだけに、蕭条たるさまに寒さがいっそう伝わってくるように思う。銀閣も庭も冬ざれて、耳の後ろあたりからぞわぞわ来る寒さ、じんじんと足下から全身に伝わってくる寒さを感じているのだろう。底冷えの京都で冬ざれた銀閣を眺めるのは紅葉の季節、桜の季節と違った美しさを感じられていい。そのあとは熱いきつねうどんでも食べたくなるだろうな、きっと。『風媒』(2014)所収。(三宅やよい)


December 03122014

 とぎ水の師走の垣根行きにけり

                           木山捷平

や、師走である。「とぎ水」はもちろん米をといだあと、白く濁った水のことである。米をとぐのは何も師走にかぎったことではなく、年中のこと。しかし、あわただしい師走には、垣根沿いの溝(どぶ)を流れて行く白いとぎ水さえも、いつもとちがって感じられるのであろう。惜しみなく捨てられるとぎ水にさえ、あわただしくあっけない早さで流れて行く様子が感じられる。「ながれ行く」ではなく「行きにけり」という表現がおもしろい。戦後早く、牛乳が思うように手に入らなかった時代、米のとぎ汁に甘みを加えて、乳幼児にミルク代わりに飲ませている家が近所にあったことを、今思い出した。栄養不足で、母乳が十分ではなかったのだ。とぎ汁には見かけだけでなく、栄養もあったわけだ。寒さとあわただしさのなかで、溝(どぶ)を細々とどこまでも流れて行く、それに見とれているわずかな時間、それも師走である。とぎ水を流すその家も師走のあわただしさのなかにある。「師走」の傍題は「極月」「臘月」「春待月」「弟(おとこ)月」など、納得させられるものがいろいろある。野見山朱鳥の句に「極月の滝の寂光懸けにけり」、原石鼎に「臘月や檻の狐の細面」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 02122014

 花八手むかし日暮れに糸電話

                           七田谷まりうす

コップふたつと数メートルの糸さえあれば糸電話はできあがる。コップをつなぐ糸をぴんと張ることがもっとも大切な約束ごとだが、たったそれだけのことで声が運ばれるとはなんだか不思議な気持ちになる。「じゃあ、始めるよ」と、糸を張るためわざわざ遠くに離れ、話し終わればコップを手渡すためにまた顔を合わせるのだから、結局聞こえたか、聞こえないか、程度の会話が続く。それでも糸を伝わる声は、どこか秘密めいていて、他愛ない言葉のひとつひとつが幼い心を刺激した。全神経を耳に集中して、あの階段、この路地と試してみれば、冬の日はたちまち暮れてしまう。路地や庭先に生えていた無愛想なヤツデの花が、まるで通信基地のように薄暗がりにぬっと突き出ていた。〈折鶴の折り方忘れ雪の暮〉〈枯葦に分け入りて日の匂ひけり〉『通奏低音』(2014)所収。(土肥あき子)




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