景気ばかりを言い募る自民党。吊られる心理もわかるが、哀しい。(哲




2014ソスN12ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 11122014

 飲食のあと戦争を見る海を見る

                           吉村毬子

食時に食事時にテレビをつければイスラム国での戦闘の画面が映し出され、次のニュースでは南半球のリゾート地でのバカンスに切り替わる、一つの部屋にいながらにしてテレビは次々と世界で同時的に起こる映像を映し出す。漫然と通り過ぎる画像を食事をしながらリビングで見る生活が歯止めなく流れてゆく。掲載句ではそうした現実を踏まえつつ、現実から少し浮遊したところで書きとめている印象だ。句に意味づけをするつもりははないのだけど、無季であるだけに「いんしょく」と読むか「おんじき」と読むかで句の色合いが変わってくるように思う。「おんじき」と読むと「飲食のあと」の言葉の響きに終末感が漂う。戦争と海の概念性が増し「見る」主体に「わたくし」ではない超越的な神の目を思わずにはいられない。日常的な飲食のくり返しの果てに戦争を見て、海に全てのものが飲み込まれてゆくのを見る、そんな怖さを感じさせられる。『手毬唄』(2014)所収。(三宅やよい)


December 10122014

 咳こんで胸をたたけば冬の音

                           辻 征夫

咳」と「冬」で季重なりだが、まあ、今はそんなことはご容赦ねがいましょう。咳こんだら、下五はやはり「冬の音」で受けたい。「春の音」や「夏の音」では断じてない。私はすぐ作者の姿をイメージしてしまうのだが、イメージしなくとも、咳こんでたたく胸は痩せた胸でありたい。肥えた胸をドンドンとたたいても、冬のさむざむとした音にはならないばかりか、妙に頼もしくも間抜けたものに感じられてしまう。では、いったい「冬の音」とはどんな音なのか、ムキになって問うてみてもはじまらない。鑑賞する人がてんでに「冬の音」を想像すればいいのだ。掲出句は征夫がまだ元気なころの作ではないかと思われる。コホンコホンと軽い咳ならともかく、風邪であれ気管支の病気であれ、それによって起こる止まらない咳は苦しいものであり、思わず胸をたたかずにはいられない。とても「しわぶき」などとシャレている場合ではない。征夫には他に「わが胸に灯(ともしび)いれよそぞろ寒」という句もある。川端茅舎の句には「咳き込めば我火の玉のごとくなり」がある。そんなこともあります。『貨物船句集』(2001)所収。(八木忠栄)


December 09122014

 野良猫に軒借られゐて漱石忌

                           尾池和子

際には猫より犬派だったようだが、漱石といえば猫、そして夏目家の墓がある雑司が谷界隈には野良猫が実に多い。野良猫の寿命は4〜5年といわれ、冬を越せるかどうかが命の分かれ目ともいわれる。先日、冷たい雨を軒先でしのいでいる猫のシルエットに気づいた。耳先がV字型にカットされている避妊去勢済みの猫である。縁側で昼寝をするほどの顔なじみではあるが、一定距離を保つことは決めているらしく、近づくと跳んで逃げる。ああ、またあの猫だな、と思いつつ、野良猫に名前を付けることはなんとなくはばかれ、白茶と色合いで呼んだりしている。そういえば『吾輩は猫である』の一章の最後に吾輩は「名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯無名の猫で終るつもりだ」とつぶやいていた。軒先で雨宿りする猫はどう思っているのだろう。漱石忌の今日もやってきたら、きっと名前を付けてあげようかと思う。「大きなお世話」と言われるだろうか。〈ふくろふに昼の挨拶してしまふ〉〈双六に地獄ありけり落ちにけり〉『ふくろふに』(2014)所収。(土肥あき子)




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