やっと荒れた天気も静まってきました。この感じで年末まで。(哲




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December 19122014

 うつくしき骨軋ませて雪は降る

                           月野ぽぽな

を歩くときゅっきゅっと靴が鳴り、静かに降りしきる雪が重たく積ってその幹や枝を軋ませている。これをうつくしい骨が軋んでいると観る感性がある。このシューリアリズムの表現を敢てこの世の景観に変換する必要もなかろう。ここにあるのはただ軋む骨、降る雪、白い美しさ、それ以上のものでない方がよい。他に<これはまだ幼い鎌鼬だろう><冬霧の膝を崩して夜の底へ><陽のままでいる綿虫に出会うまで>などあり。「俳句」(2012年1月号)所載。(藤嶋 務)


December 18122014

 コート払ふ手の肌色の動きけり

                           村上鞆彦

か紺色が深い色のコートの袖から出ている手の動きが生々しく感じられる。「コート払う」とあるので肩や裾あたりを手で払う動作が想像されるが、冬物の濃いコートの色を背景に遠くからでもその動きは目立つことだろう。句の着目はあくまでも手の「肌色」である。クレオンの肌色という色がオレンジベージュという言葉に変わったというニュースを聞いた。確かに人種によって「肌色」は違うし、あくまで黄色人種の日本人の示す範囲の概念だからだろう。この句で連想させる色もその肌色なのだけど、「肌色の動きけり」と即物的に書かれているだけに、コートからむき出しになっている手の動きと、その手がさらされている冷たい空気を想像させる。防寒用のコートや外套そのものを句の中心に置いた句を多いが、コートから露出した手でコートの色や質感を際立たせるような掲句の視点は新鮮に思える。『新撰21』(2009)所載。(三宅やよい)


December 17122014

 たましひの骸骨が舞ふ月冴えて

                           那珂太郎

書に「大野一雄舞踏」とある。老年になってからの大野一雄の舞踏であろう。那珂さんが大野一雄の舞踏に、興味をもっていたとしても不思議ではないけれど、お二人の取り合わせはちょっと意外な感じがする。私も若いころから、大野さんの舞踏を大小さまざまな場所で拝見する機会が多かったし、晩年の車椅子での“舞踏”も何回か拝見した。「たましいの骸骨」とか「骸骨が舞ふ」という捉え方は詩人なればこそ。舞踏評論家でそういう捉え方をした人は、おそらくいないであろう。ずばり「骸骨」は凄い。言われてみれば、たしかに「たましいの骸骨」の舞いであった。ここで「骸骨」という言葉は、もちろん嫌な意味で使われているわけではなく、まったく逆である。むしろ余計なものをふり捨てて「生」を追いつめた、清廉で荘厳な「生命体」として捉えられている。ステージを観客はみな尊崇の表情で見つめていたが、その舞踏は「荘厳」とはちょっとちがう。敢えて言えば「荘厳な骸骨」としか言いようのない舞踏だった。この句の「たましひ」という言葉こそ重要であり、至上の響きをはらんでいる。那珂太郎の俳号は「黙魚」。眞鍋呉夫らと「雹」に属した。掲出句は「雹」3号(2000)に発表した「はだら雪」十五句のうちの一句。他に「炭つぐや骨拾ふ手のしぐさにて」がある。『宙・有 その音』(2014)には191句の俳句が収められた。(八木忠栄)




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