明日まで留守にします。メールの返信など遅れますが、ご容赦を。(哲




2014ソスN12ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 22122014

 ひだりより狐の出でし障子かな

                           西原天気

語は「障子」。これを冬の季語とするのは、まだ冷暖房設備が整わなかったころ、夏は風通しをよくするために外し、寒くなってきてから障子を入れる習慣があったため。こうして整えられるのが「冬座敷」というわけだ。その冬座敷の障子に、いきなり狐が現れた。びっくりするような光景だが、この狐は影絵遊びのそれだろう。貼り替えた真新しい障子は、それでなくとも想像力を刺激してくる。影絵の主もちょっと遊んでみたかったのだろう。私も子供のころに、狐や犬を写しては弟に見せて楽しんだものだった。ただし電気の来ない家に住んでいたので、光源はランプだった。大人であればランプの光源はゆらめいたりするので魅力的と思うかもしれないが、子供にははっきりしない映像がもどかしかった、狐や犬以外にも多くのキャラクターを作ることができたけれど、いまでは狐と犬くらいしか覚えていない。そして現在の我が家には、もはや肝心の障子がないのである。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)


December 21122014

 空を出て死にたる鳥や薄氷

                           永田耕衣

は水中に生き、哺乳類は地上に生きます。魚は水中から出ると死に、哺乳類は、クジラ・イルカの類を除けば水中では生きられません。掲句もその考え方でいいのかどうか。空を出たら、鳥は死ぬ。そんな、空の掟があるのでしょうか。その前に、空とは何か。空はどこから始まってどこで終わるのでしょう。うまく定義づけられません。無難に答えるなら、水中でも地表でもない空間ということになります。ところで、私が今いる二階の部屋は水中でも地表でもありませんが、空でもありません。たしかに、私が部屋を出て家を出て戻らなければ、死んでしまったと思われることもあるでしょう。掲句の鳥も、空を出て、鳥としての生活圏外に出てしまったから死んだのでしょ う。あるい は、生き物が死ぬということは、生活圏の外に出るということなのでしょう。当たり前ですね。ちょっと視点を変えます。掲句の鳥は、雀や鳩、鴉ではありません。雀は、電線を伝わる程度の飛躍力しかないし、21世紀に入って、伝書鳩はほぼ絶滅しているでしょう。都会の鴉は、サラリーマンのように郊外の森から都心に出勤するので、数十メートル上空を移動します。鴉は、黒い羽根に隠された逞しい筋肉で羽ばたき空を飛びますが、狡知を働かせた都市生活者として地に足をつけて生きています。雀も鳩も鴉も、都市民のおこぼれをいただいて生計を立てるパラサイトである以上、空の生き物とは言えません。たぶん、掲句の鳥は、人間の世界とは全く無関係に、自然の摂理の中で生きる鳥だと思い ます。雁や鴨、ツグミやヒワなどの渡り鳥が、薄氷が張っている湖畔で客死している姿です。作者は、旅に死す姿に、至上の生き様をみています。詩人の死もこうあるべきや否や。空はどこから空なのか、その境界は曖昧ですが、湖水と地表の境界に薄氷を張らせたところに、画家でもあった耕衣の絵心をみます。その心は、鳥の死骸の傍らで、薄氷には空が反射しています。ここまでが空、ここからが空。天と地の、鳥送りのレクイエムです。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


December 20122014

 着ぶくれてゐても見つけてくれる人

                           石塚直子

、重くて肩が凝るという理由で真冬でも薄着していたら、寒い時薄着をしていると体の防衛本能が働いて脂肪が付きますよ、ほらトドみたいに、と言われ慌てて分厚いコートを着たことがあった、今は高性能のインナーやダウンジャケットがあるので助かる。そのダウンジャケットも、膨らんで見えるから着ません、と言っている知人もいるし、雑誌には、着ぶくれしないダウンジャケットの選び方、が特集されていたりする。伊達の薄着に象徴される我慢が、粋すなわちお洒落に通じるとすれば、安心して着ぶくれることは甘えに通じるということか。若い二人にとってはそんな甘えも文字通り心地よい甘さなのですね。『古志青年部作品集 第二号』(2013)所載。(今井肖子)




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