ム子句

January 0312015

 数へではあら六十や明けの春

                           小泉洋一

の句が収められている句集の名は『あらっ』(2013)。掲出句からとった、とあとがきにある。「その時の心持ちが素直に詠めたことがうれしかった」とは同じあとがきにある作者の言葉だ。「あら」は、ああ、あな、というある種の感動を表しているが、「あらっ」となると、あらまあびっくり、といった感じがよりにじむ。還暦はやはり一種感慨があるもので、同窓生が集まるとあれこれ話題になる。作者は早生まれ、年が明けて、皆今年還暦だけれど自分は来年よ、と思った瞬間、あ、数え年ならもう六十歳ではないか、と気づいて盃を持つ手が止まったのだ。年が明けることも、干支が一回りすることも、とりあえずめでたい。(今井肖子)


January 1012015

 寒苺われにいくばくの齢のこる

                           水原秋桜子

苺は本来、冬苺とも呼ばれる野生の実で、これが冬苺ですよ、と言われ丸くぷちぷちとしたそれを口にした時のすっぱさと共に記憶にある。しかしこの句の寒苺は、寒中に出回っていた温室栽培の冬の苺。というのも、売っていたものを買い求め、そのつややかな色を描こうとして見つめている時に作られた句であるからだ。確かに、思わず自らの老いを自覚してしまう感覚は、大粒でみずみずしい真紅の苺の輝きがなくては生まれない。しかし、寒苺の句として読んでも、冬枯れの野に小さく実をつけた冬苺の赤を愛おしむようなやさしさがにじんで、自らの老いはとうに自覚している、というまた違った趣の一句となる。ただ、われにいくばくの、とあえて字余りのひらがな表記の中八には前者の方がぴたっとくるだろう。六日の寒の入から月も欠け始めいよいよ寒さもこれからである。『霜林』(1950)所収。(今井肖子)


January 1712015

 寒いからみんなが凛々しかりにけり

                           後藤比奈夫

かに、暑さにたるみ切った姿より寒さに立ち向かう姿の方がきりりと引き締まっている。それにしても前半の口語調と後半の、かりにけり、とのアンバランスが得も言われぬ印象を与える掲出句だが、既刊十句集から三百八十句を選って纏められた句集『心の花』(2006)の中にあった。そしてこの二句後に<一月十七日思ひても思ひても >。作者は神戸在住。思えば寒中、寒さの最も厳しい時に起こった阪神淡路大震災である。寒さは何年経ってもその時を思い出させるのかもしれないが、この句の肉声にも似た口語調と、凛々しかりにけり、にこめられた深く強い思いに励まされるような気がしてくる、二十年目の今日である。(今井肖子)


January 2412015

 日脚伸ぶとは護美箱の中までも

                           坊城俊樹

年中で最も寒いと言われる大寒から立春までのこの二週間余りだが、日脚が伸びたことを実感するのもこの頃合いだ。昼間の時間が長くなるのはことに日が沈むのが遅くなるからだろう、たとえば今日一月二十四日の東京の日の入りの時刻は午後五時、松が取れる頃に比べると約二十分遅くなっている。掲出句、たとえば書斎で仕事をしているのか、あるいは公園を散歩しているのか、ふと時計を見るともう五時、なのにまだ仄明るい。少し前まで五時になったら真っ暗だったのにな、と思うとじわりとうれしく日脚が伸びたことを実感している。ゴミ箱は護美箱となって、捨て去られたゴミがそのじわりを受け止めているように感じられるがそれにしても、護美箱、とはよくできた当て字だとあらためて思う。『坊城俊樹句集』(2014)所収。(今井肖子)


January 3112015

 大試験指切れさうな紙で来る

                           谷岡健彦

度か書いているが、大試験は本来三月の進級試験、卒業試験のことを表す言葉。しかしどうしても、一月から二月にかけての入学試験シーズンになると、大試験の句に目が行ってしまう。それは学校に勤めているからか、自らの入学試験の失敗が未だに思い出されるからか、その両方なのか。掲出句は、来る、の一語に臨場感があり、受験生の視点で作ることで試験会場全体に漲る緊張感が見える。受験生に、出題者の意図を見抜け、などと言うことがあるが、入学試験は紙一枚の上で繰り広げられる、作問するものとそれを解くものの一発勝負なのだ。東京の私立中学入学試験の多くは明日から三日間。他に<木枯の向かうにわが名呼ぶ声す><若書きの詩の燃え立つ焚火かな>。『若書き』(2014)所収。(今井肖子)


February 0722015

 紅梅のゆるく始まる和音かな

                           宮本佳世乃

の季節は春を待ちながら静かに始まり、その花は香りを放ちつつ早春を咲きついでいつのまにか終わってゆく。丸く小さい蕾はいかにもかわいらしく、その濡れ色を一輪ずつほどく濃紅梅もあれば、夕空の色にほころぶ薄紅梅もある。一言で濃い、薄い、と言っても数え切れないほどの色があり、纏う光や風によっても趣が変わる。そんな紅梅のさまざまな視覚的表情が、和音、という聴覚的表現で見えてくる。と、こんな風に理屈で、和音、という言葉に意味付けすることは作者の意図するところではないのかもしれない。ともあれ、独特の感覚で対象を捉えて自然に生まれた言葉にすっと頬をなでられたような、不思議な気がした。『鳥飛ぶ仕組み』(2012)所収。(今井肖子)


February 1422015

 バレンタインデー耳たぶに金の粒

                           佐藤公子

レンタインデーは、さまざまな変遷を経て今日に至っているが多くの女性は<いつ渡そバレンタインのチョコレート >(田畑美穂女)に思い出す一コマがあることだろう。掲出句の作者にとっても、そんな密かなドキドキは遠い思い出か。たまたま行き合わせたバレンタインデー直前のデパ地下、いつもの売り場がチョコレートで埋め尽くされている。そうかしまった、出直そう、と思いながら、チョコレートに群がる女の子達を見ている作者。やわらかい耳たぶに刺さって光る金のピアスは彼女達の若さの象徴であると同時に、その若さを目の当たりにした作者のもやもやとした何かを呼び覚ましたのかもしれない。私だって昔からおばあさんだったわけではないのよ、とは八十六歳の母の口癖だ。『松の花季語別句集』(2014)所載。(今井肖子)


February 2122015

 雲低くなり来て春の寒さ急

                           翁長恭子

週は雪もちらついた東京、せめて春らしい句をと思っていたのだがこの句の寒さに共感してしまった。この時期は日々の寒暖の差もさることながら、一日の中でも風が無い日向はぽかぽかしていても、いったん日翳るとにわかに風が出て寒くなってしまう。まさに、寒さ急、であるが、急、でふっつりと途切れていることで余韻を生み、この後低く分厚い雲から淡雪が落ちてきたのでは、と思わせる。この句を引いた句集『続冬の梅』(1985)の作者略歴には、昭和二十三年から三十年間ホトトギス社に勤務、とあり集中には<事務の灯に春の時雨のくる暗さ>などの句も。他に<訪ふ家のさがしあてえず梅白し><春月にひとりの門扉とくとざし>など。(今井肖子)


February 2822015

 さらさらと舟のゆきかふ二月尽

                           高橋雅世

の前にある二月のカレンダー、一から二十八までの数字がきちっと長方形に並んでいる。たった二日か三日の差であるにもかかわらず二月があっという間に逃げてしまうのは、年度末に向かう慌ただしさと日々変わる天気や気温のせいだろうか。掲出句の、さらさら、にはそんな春浅い風と光が感じられる。小舟がゆっくりと行き交っているのは湖か。本当の春が近いことを告げる穏やかな日差しが、ああ二月も終わるなあ、と遠いまなざしで水辺に立つ作者に静かに降りそそいでいる。他に<椿より小さき鳥の来てをりぬ ><凧揚げの少年に草ながれけり>。『月光の街』(2014)所収。(今井肖子)


March 0732015

 卒業の涙はすぐに乾きけり

                           今橋眞理子

年、三月第一週でその年度の授業が終わる。一年間、ほぼ毎日顔を合わせているので卒業式のみならず、どの学年を担当していてもそれなりに一抹の淋しさがあるのだが、この時期になると掲出句が思い出される。作句の年代から見て自らの卒業の印象であり、あんなに泣いたのに、という素直な実感が句となっていていろいろ言う必要もないのだが、こう言い切れる涙はなかなか他にはない。そして送り出す側は、そのまま二度と振り向くことなく思い出すことなく進んで行ってほしい、と願うのだ。あらためて、二十代から確かな感性を磨き続けてきた作者なのだと感じる。『風薫る』(2014)所収。(今井肖子)


March 1432015

 花菜漬行つてみたきはぽるとがる

                           矢野景一

一雄が見た夕日を見にポルトガルに行きたい。国文学専攻の友人の一言でポルトガルへ、二十年近く前のことだ。サンタクルスにあるという「落日を拾ひに行かむ海の果」の石碑の記憶は乏しいが、最西端の岬で見た夕日は印象深い。掲出句、作者は花菜漬の明るい緑と小さな黄に春の訪れを感じて旅心を誘われたのだろう。ほのかな苦味を楽しみながらポルトガルに思い至ったのは、前出の友人のように学生時代からの思いがあったのか、それともふと思いついたのか。ヨーロッパ旅行の目的地として決してメジャーとは言えないポルトガルだからこその味わいがあり、つぶやいた時の音と同様、ぽるとがる、の文字がやわらかく春らしい。(2014)『游目』所収。(今井肖子)


March 2132015

 うつそりやお彼岸だけの傭ひ所化

                           田中田士英

岸中日でもあることだしと『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)をぱらぱらと見ていたらこの句があったが、一読して意味がよくわからない。まず、うっそり。調べると、ぼんやり、のっそり、という意味の副詞、うっかりしている様、人、といった名詞、形容動詞とある。次に、所化(しょけ)、これは修行僧のことらしい。つまりは、お彼岸の忙しい時に駈りだされている修行中のお坊さんが、忙しさのあまりかまだ修行が足りないからか、どうもぼんやりと頼りなく心ここにあらずのような感じがする、あるいはミスを連発してやれやれ、といったところか。作者は明治八年生まれの小学校教師というから、かなり厳格であったと思われ、うつそりや、の切れに、喝、の文字がにじみ出ている。(今井肖子)


March 2832015

 春の雲けもののかたちして笑う

                           対馬康子

れを書いている今日は朝からぼんやりと春らしいが、空は霞んで形のある雲は見当たらない。雲は、春まだ浅い頃はくっきりとした二月の青空にまさに水蒸気のかたまりらしい白を光らせているが、やがていわゆる春の雲になってくる。ゆっくり形を変える雲を目で追いながらぼーっとするというのはこの上なく贅沢な時間だが、この句にはどこか淋しさを感じてしまう。それは、雲が笑っているかのように感じる作者の心の中にある漠とした淋しさであり、読み手である自分自身の淋しさでもあるのだろう。他に<逃水も死もまたゆがみたる円周 ><火のごとく抱かれよ花のごとくにも  >。『竟鳴』(2014)所収。(今井肖子)


April 0442015

 ニセモノのあつけらかんと春麗

                           岩田暁子

物とニセモノは違うのだな、とこの句を読んで思った。偽物、と書くとそこには、騙そうとする悪意が見えるが、ニセモノ、と書かれるとまさに、あっけらかん、という言葉がぴったりくるようななんちゃって感が生まれる。それは、本物と見紛うほどよくできているかどうかとは別で、思わず失笑してしまう偽キャラクター人形などは、騙すという意識さえない図々しい偽物だろう。この句のニセモノの正体はわからないが、作者はその明らかなニセモノぶりを楽しんでいる。「うららか、はそれだけで春なので、春うらら、と重ねるのはあまり感心しない」と言われることもあるのだが、この句の場合は、春麗、と重ねた文字が大らかにニセモノにも光をあてて、まさに春爛漫という印象だ。『花文字』(2014)所収。(今井肖子)


April 1142015

 夕日には染まらぬ花の白さかな

                           長谷川槙子

開花前線は東北地方を北上中、東京は散り時に寒が戻ってやや潔さに欠けている。雨の中近所の公園に行くと、無数の落花が土に還ろうとしながら白く輝いていたが、この句の桜もそんなソメイヨシノだろう。そして、夕日の中にあって夕日の色に染まっているように見えている。しかしさらにじっと見ていると、桜の花の一つ一つが光をはね返し、その白さが際立っていると気付くのだ。自ら光を放っているような花の白、今を咲いて明日には散る桜を見上げつつ、花と心を通わせている作者なのだろう。『槙』(2011)所収。(今井肖子)


April 1842015

 鶯のしきりに鳴いて風呂ぬるし

                           本田あふひ

の句を引いた『本田あふひ句集』(1941)は遺句集。手ざわりの佳い和紙の表紙で、大正五年から六十三歳で亡くなった昭和十四年までの作、百三十句余りが収められている。虚子の序文には「あふひさんが、一度ホトトギスの巻頭になりたいものだな、といはれたときに、私は<屠蘇つげよ菊の御紋のうかむまで >といふあなたの句がある。あなたは其一句の持主であるといふことが何よりも誇ではありませんか、と言つたことがある」というエピソードが語られている。格調高くおおらかな作風を持つ、女性俳句開花期の俳人の一人と言われているが、ふと呟いたような掲出句はどこかとぼけた味わいと人間味があって、思わず見開きの本人の写真を見返してしまった。鶯の声はきれいだったけれどちょっとお風呂はぬるすぎたのよ、でもまあゆっくり浸かってその声を楽しむにはちょうどよかったかしらね。くりっと大きい目でこちらを見ているあふひが、そんな風に言っているようにも思えてくる。(今井肖子)


April 2542015

 もつれつゝとけつゝ春の雨の糸

                           鈴木花蓑

つれてとける糸、とはいかにも春の雨らしく美しいが、今頃の雨は遠い記憶を呼び起こす。確か中学二年の春、理科氓フ授業で自然落下の公式を教わったその日も、先生の声を遠く聞きながらぼんやり雨の窓を見ていたのだがふと、雨の速さってどのくらいなんだろう、と考えた。帰宅して、雲の高さから習った公式で雨が地上に着くまでの秒数を計算してそこから時速を計算すると、確か九百キロ近くに。うわ大変、傘に穴が開く・・・しかし窓の外の雨は静かにもつれてとけていたのだった。翌日、先生が空気抵抗の話と共に実験を見せて下さりほっと納得したのだが、晩春の雨の記憶は未だマッハの衝撃と共にある。『ホトトギス 新歳時記』(2010・三省堂)所載。(今井肖子)


May 0252015

 春暑き髪の匂ひや昇降機

                           小泉迂外

ールデンウィーク前に東京は夏日、北海道では十七年ぶりの四月の真夏日だったという。いわゆる、いい季節、が短くなってゆくこの頃、なるほど春暑しか、と思ったが、常用している歳時記には無く見慣れない。そこで周りに聞いてみると、なんか詩的じゃない言葉ね、と言われた。確かに、惜しむはずの春がうっとおしく感じられる気もするし、夏近し、のような色彩も期待感もなくなんとなく汗ばんでいる。しかし、掲出句のエレベーターの中で作者が感じ取った髪の匂いは、夏の汗の臭いのようにむっとするほどでなく、かといって清々しいというわけでもなく、どこか甘く艶めかしい、まさに春暑き日の名残の匂いだったのだろう。何が詩的か、とはまことに難しい。『俳句歳時記』(1957・角川書店)所載。(今井肖子)


May 0952015

 薔薇咲くや生涯に割る皿の数

                           藤田直子

り乱れる薔薇の花弁から割れた皿の破片を思い浮かべるのと、割れてしまった皿の欠片を見た時そこに薔薇のはなびらが重なって見えるのとでは印象が異なるだろう。割れた皿の欠片からさえ、美しく散る薔薇を連想するという想像力と美意識が、この作者の凛とした句柄には似合っているのかもしれない。しかしまた、広い薔薇園で散り始めた無数ともいえる花弁の色彩やふくよかな香りの中にいながら、ふと硬く尖った陶器の破片が音を立てて散らばった一瞬を思う、というのも捨てがたい。いずれにせよ、生涯に割る、という一つの発見までの時間の経過を共有することで読み手も一歩踏み込むことができ、咲くや、により薔薇はなお生き生きと強い生命力を持ちそれが前を向いて進む作者の姿に重なる。『麗日』(2014)所収。(今井肖子)


May 1652015

 さんさんと金雀枝に目があり揺れる

                           佐藤鬼房

関先に金雀枝の大ぶりの甕のような鉢が置いてあり花盛りだ。ほとんど伸び放題でどんどん咲いて散っているが、くたびれてぼんやり帰宅した時その眩しさを超えた黄に迎えられるとほっとする。我が家の金雀枝は黄色一色だが、掲出句のものは赤が混じっている種類だろう、おびただしい花の一つ一つが目のように見えている。一般的に、小さいものがぎっしり、という状態はそれに気づくとちょっとぞわっとするものだ。筆者にとってはピラカンサスや木瓜の花などがその類なのだが、作者にとってこの金雀枝はそうではない。金雀枝の風に遊ぶ自由な枝ぶりと初夏の光を湛えた花の色が、さんさんと、という言葉を生んで明るい。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


May 2352015

 緑蔭に赤子一粒おかれたり

                           沢木欣一

の句の話をちょっとしてみたら、え、一粒ってドロップじゃあるまいし、という人あり、いやでも一粒種って言うじゃないですか、という人あり、それはちょっと違う気も。しかしやはり、一粒、が印象的な句なのだろう。一読した時は確かに、赤子一粒、という思い切った表現が緑蔭の心地よさと赤ん坊のかわいらしさを際立たせていると感じたが、何度か読み下すと、たり、が上手いなと思えてくる。おかれあり、だと目の前にいる感じで、一粒、と表現するには赤ん坊の像がはっきりしすぎるだろう。おかれたり、としたことで景色が広がり、大きい緑陰の涼しさが強調される。『沢木欣一 自選三百句』(1991)所収。(今井肖子)


May 3052015

 山滴り写真の父は逝きしまま

                           辻 桃子

くなられたお父様の写真が窓辺に飾ってある。その窓は正面に山、雪に閉ざされている間は白一色だ。そして次第に色をほどいて光に包まれ、さらに緑を深めつつ新緑から万緑へふくらんでゆく。窓辺の写真は変わらず優しい微笑みを投げかけているが、その微笑みは永遠であるがゆえ、もう二度と蘇ることはない。山に命の源である滴りが満ち溢れる季節にはひとしお、淋しさが滲んでくるのだろう。ちなみに常用の歳時記には、滴り、はあるが、山滴る、は載っていない。『合本俳句歳時記』(2008・角川学芸出版)には、「夏山蒼翠として滴るが如し」から季語になった、と書かれているが確かに、春秋冬の、山笑ふ、装ふ、眠る、に比べると、山を主語に考えた時異質な気がする。もちろん景はくっきりと分かるのだけれど。『馬つ子市』(2014)所収。(今井肖子)


June 0662015

 口癖は太く短くビール干す

                           後藤栖子

く短く、が例えば夫の口癖だとすれば、もうその辺で止めておいたら、と気遣っている妻に向かって、いいんだよいいんだよ、ビールが無くて何の人生だ、などと言っていそうだ。しかし飲み仲間でも、最後までビール、という人は数えるほどしかいない、真のビール好きである。飲む、でも、酌む、でもなく、干す、の勢いが、ビールらしく軽やかだが、作者の後藤栖子さんは二十代から病と闘われて、平成二十年六十七歳で亡くなられたと知った。そんな作者自身の言葉だとすると、太く短く、はまた違ったものになる。背景から作者の真意を読み解くこともひとつ、短い十七音の第一印象から読み手自身の中で自由に広げていくのも俳句ならではだが、いずれにしてもこの句のビールの持つ明るさは変わらない。『新日本大歳時記 夏』(2000・講談社)所載。(今井肖子)


June 1362015

 入梅を告ぐオムレツの黄なる朝

                           山田弘子

の時期に雨が降らなければ水不足になるしあれこれ育たないし困るのだ、と分かってはいる。それでも〈世を隔て人を隔てゝ梅雨に入る〉(高野素十)、これからしばらくは雨続きですよ、と宣言されてなんとはなしに気分が沈むのが梅雨入りだろう。掲出句で入梅を告げているのは朝のテレビ、作者はちょうど朝食のオムレツの前に座ったところだ。雨模様の窓を見つつ、当分はこの雨が続くのかやれやれ、と思いテーブルのオムレツに目をやると、光を思わせる卵色とあっけらかんと赤いケチャップがいつにもまして鮮やかに見え、よし、という気分になる。そして、隔てるどころかその日もたくさんの人に明るい笑顔を見せて過ごしたにちがいない。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(今井肖子)


June 2062015

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる

                           中村草田男

日、自宅で飼っているというカタツムリが夜、人参を食べている映像を見た。おろし金のようなたくさんの歯を持っている蝸牛だが、かなり大きな良い音を立てていた、真夜中にどこからともなく聞こえて来たらちょっと怖い。よく見かける身近な蝸牛だが、美しい螺旋形の殻と流動的な柔らかい体を持ち、雌雄同体の謎めいた生き物だ。掲出句の、蝸牛、は、ででむし、と読んだ。殻に全身を閉じ込めて蓋をしてしまうこともあるというのでそんな姿で梅雨晴のある日、葉陰かどこかの片隅でじっとしていたのだろう。日差しが明るければ明るいほど、小さな貝殻となって動かない蝸牛の持つ闇がその螺旋に沿って果てしなく深くなっていくようでこれもちょっと怖くなる。『草田男季寄せ 夏』(1985・萬緑発行所)所載。(今井肖子)


June 2762015

 茄子漬の色移りたる卵焼

                           藤井あかり

供の頃から茄子の漬物が好きだった。糠漬けの茄子は、祖父母、父母、妹との六人家族時代、祖母と二人だけの好物で、よく台所の片隅でこそこそ食べた。その頃紫陽花の花を見て、茄子の漬物みたいな色だよね、と母に言って、あなたは俳句には向いていないわね、と言われたことも思い出す。あの美しい茄子色も、卵焼きに移ってしまうとやや残念ではあるが、黄色い卵焼きを染めてしまった茄子漬の紫がどれだけ鮮やかか、ということがよくわかる。そして、お弁当箱を開いた時の、あ、というこんな瞬間も俳句にしてしまう作者は今まさに、眼中のもの皆俳句、なのだろう。〈足元の草暮れてゆく端居かな〉〈万緑やきらりと窓の閉まりたる〉〈遥かなるところに我や蝉時雨〉。『封緘』(2015)所収。(今井肖子)




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