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January 0612015

 抱かれたし白ふくろふの子となりて

                           森尻禮子

クロウは、鳥のなかでも、顔が大きく扁平で、目鼻立ちが人間に近い。ヨーロッパでは古くから「森の賢者」とされ、知恵の象徴としてきたが、日本では不吉なものだった。しかし、最近では「不苦労」「福来路」「福老」などと読み替えて、縁起を上乗せし、ウサギやカエルについで、小物などの収集家の多い生きものとなっている。シロフクロウといえば、「ハリー・ポッター」でハリーのペットとして登場し、その大きく、美しく、賢い姿に一時ペットとしての人気も急上昇し、「ふくろうカフェ」なる場所も今や話題だ。それしにしてもフクロウの子どもときたら、手のひらサイズで全身ふわふわ、うるうるの瞳をうっとり閉じる様子などとても猛禽類とは思えない可愛さである。ふくろうカフェの紹介には「鳥というより猫に近い」とあり、猫好きが心惹かれる道理と納得した。〈鷹狩の電光石火とはこれぞ〉〈鳰の巣に今朝二つめの卵かな〉『遺産』(2014)所収。名前の表記はネヘンに豊。(土肥あき子)


January 1312015

 鮟鱇や大事なところから食べる

                           水上孤城

見からするとどう見ても美味とはほど遠い鮟鱇ではあるが、実は捨てるところなど全くないといわれるほどおいしい魚である。七つ道具とは、なくてはならない七種類のものをいうが、鮟鱇はこれ全身が美味の七つ道具。「肝」「ぬの(卵巣)」「ひれ」「えら」「皮」「水袋(胃)」「身」でしめて七つ。全体の80%が水分でさばきにくいことから、口にフックを掛けて吊し切りをするが、この七つ道具が外されると、残るは骨と口だけという心細い姿となる。掲句のいうもっとも大事な場所とはどこかと考えると、ものごとの重要を意味する「肝」に違いないと思われ、たしかにもっとも先に箸を付けたい場所だと得心する。しかし、大事な箇所ばかりを肥大させられるガチョウの不運を思うと、おいしくなりすぎるのも危険なことなんだよ、ともつぶやきたくもなるのである。『水の歌』(2010)所収。(土肥あき子)


January 2012015

 このあたり星の溜り場穴施行

                           酒井和子

施行(あなせぎょう)とは、餌が乏しくなる寒中に鳥や獣に食べものを施す習俗。寒施行、野施行ともいい、三升三合三勺の米を炊いて作った小さな握り飯を獣が出入りしそうな洞の前や大樹の根方などに置く。翌朝、食べものがなくなっていると豊作になると言われるが、この習俗は吉兆占いというより、ときに害獣となる敵であっても、この地に生きるものとして寒さや飢えを思いやる気持ちが勝っているように思われる。凍るような空に満天の星がひとところかたまり灯っているのも身を寄せ合っているようにも思え、また、この冬に命を落とした生きものたちがまたたいているようにも見え、その明るさに胸がしめつけられる。〈紙子着てわがむらぎものありどころ〉〈水仙の木戸より嫁ぎゆきにけり〉『花樹』(2014)所収。(土肥あき子)


January 2712015

 おはじきの色はじきつつ冬籠

                           河内静魚

ラスがまだ手軽な存在ではなかった頃、おはじきには細螺(きしゃご)という小さく平たい巻貝を鮮やかに染めたものが使われていた。戦争による物資不足の時代には、石膏で型抜きされ染色したものや木製の代用品が出回った。女の子の小さな指先で繰り返し弾くには、それにふさわしいものがそれぞれの時代に合わせて姿を変えながら存在する。ふわりと撒いたおはじきを弾き合わせながら手元に増やしていく遊びは、男の子のメンコやビー玉の威勢の良さとはまったく違う、静かな空気に包まれる。思い出してみれば見慣れたガラスのおはじきにはあざやかなマーブル模様が入っていた。色彩のとぼしい冬の景色におはじきの色が軽やかに行き交えば、それはまるできゃしゃな指先から遠い春へめがけて放たれる光線のようにも見えてくる。『風月』(2014)所収。(土肥あき子)


February 0322015

 エンドロール膝の外套照らし出す

                           柘植史子

画の本編が終わり、キャストやスタッフの名が延々と流れるエンドロール。これが出た途端、席を立つせっかちな人もいるようだが、おおかたは映画の余韻に身を置きながら、日常へと戻っていく「次の間」のような時間を過ごす。少し明るくなった館内で丁寧に折りたたまれた外套に目を落としたとき、彼女は普段を取り戻す。そのあたりに浮遊したままの気持ちをかき集め、外套に押し込めるようにして席を立つ。それはほんの少し残念なような、それともほっとするような、映画を見終わったあとの独特の気分である。それにしても、最近のエンドロールは凝っていて、日常への入口にならない場合も多い。第60回角川俳句賞受賞。受賞作50句には〈受付の私語をさまよふ熱帯魚〉〈蜜豆や話す前から笑ひをる〉など。「俳句」(2014年11月号)所載。(土肥あき子)


February 1022015

 薄氷に透けて泡沫動きけり

                           深海龍夫

氷(うすらい)は、春先うっすらと張る氷。頼りなく淡くはかなくあることが身上である。氷の下にたまった空気も、深く固くとじこめられた風情ではない。薄い氷ごしに、今にも外に出たそうに動く小さな泡は、春の卵のようにうずうずと動きまわっている。まだまだ名のみの春とはいえ、薄氷に注ぐ日差しはまっさきに泡沫を助け出し、氷の張った水たまりはたちまち春の泥と化すのだ。凍える日々から一刻も早く解放はされたいが、霜柱や氷の張った水たまりを踏み歩く楽しみを手放し、春の泥が跳ねないように注意深く歩かねばならなくなってしまうことだけは、少々残念なのである。〈疑問符は耳の形や春立てり〉〈蹤いてくるイルカが二頭春の航〉『鉄塔』(2014)所収。(土肥あき子)


February 1722015

 日の涯雪の涯の春動く

                           深谷雄大

にはどちらも「はたて」のルビ。北海道在住の作者にとって、実際の春の訪れはまだずっと先のことながら、だからこそわずかな変化にも敏感なのだと思われる。冬至から確実に日は伸び続け、昼間の長さによって季節の動きを実感する。俳句で使われる「日」には、陽光と一日という時間のどちらとも取れるものだが、掲句では、どこまでも続く地平の涯まで積もった雪の上に投げかけられたたっぷりの日差しが感じられる。「涯」の文字が、はるかかなたではあるが、確かに動いているのだという存在感にもつながっている。一面の雪の上に投げかけられた日差しはまるで春を招く風呂敷のように明るく広がり、北国の春がずっと向こうから一心に手を振っている。〈耳当てて根開きの樹の声を聴く〉〈水の面の雲逆流る春の天〉『寒烈』(2014)所収。(土肥あき子)


February 2422015

 雪解風産着のにほひのせてくる

                           福谷俊子

が降らない場所に生まれ育ったこともあり、雪解風という実感は残念ながら分からないが、それは待ちこがれたものであり、厳しい季節の終わりを告げる嬉しい知らせであることだけは理解する。やや逸れるが、一番好きな匂いという質問のなかで、「雪が降る前の匂い」という答えを見つけた時、雪国生まれの友人が「わかるわかる」と頷いたのち、「絶対に説明できない」と言い放ったことなども思い出しつつ、雪への羨望は深まるばかりだ。掲句によって雪解の時期に吹く風は、清潔な産着の匂いがもっともふさわしいものだと知った。雪解風とは春の赤ん坊を包んでいるのだと気づくと、その匂いはしごくもっともで、健やかさと幸せにふたたびうっとりと思いを馳せるのである。〈さよなら△またきて□鳥雲に〉〈名を知らぬ星がいつぱい朱欒咲く〉『桐の花』(2014)所収。(土肥あき子)


March 0332015

 あたたかにつむりを寄せて女の子

                           高田正子

性の呼び方を定義することはむずかしいが、女の子とは0歳〜10歳あたり、少女期の前のひと桁の年齢がふさわしい。過ぎた日にはたしかに私自身も小さな女の子であったはずだが、今となってはその語感には、過去というより、どこか曖昧で不思議な感触を抱く。放出する少年のエネルギーに対し、少女たちは光りを内包するように輝いている。女の子が集まり、頭を寄せて、ひそひそと小声でささやき合う姿は、まるで、妖精たちがきれいな羽を閉じてなにごとかを相談しているようにも思われる。ここまで書いて、ボッティチェリの描く「春」とつながっていることに気づいた。無垢な女の子こそ、春の到来にもっとも似つかわしいものなのだ。本日は桃の節句。あちらこちらの雛壇の前で、かわいらしいつむりが寄せられ、春を祝福する図が描かれていることだろう。〈雛壇に小さき箒ちりとりと〉〈ほほといふ口して三人官女かな〉〈雛さまの百年風を聴くおかほ〉『青麗』(2014)所収。(土肥あき子)


March 1032015

 春風やピエロの口の中に口

                           佐々木ひさこ

辞苑によるとピエロは「白粉や紅を塗り、だぶだぶの衣装を着て襟飾りをつけ、円い帽子をかぶる」とされる。笑いを取るための衣装や化粧であるにも関わらず、その奇抜な姿かたちにぎょっとし、大げさに描かれているからこそ、その笑顔とうらはらにある真実の顔を探るように見てしまうのだ。作者は白塗りの顔のなかに大きく描かれた口の一部に、本当の口が存在することに目をとめる。もちろんそれはあるべき場所にあって当然のものだが、そこに悲しみが貼り付いているように見てしまうのだ。ピエロのメイクには必ず大粒の涙が描かれるという。春風のなかに立つピエロは一体笑ってほしいのか、一緒に泣いてほしいのか、胸を騒がせたまま通り過ぎる。『霧比叡』(2014)所収。(土肥あき子)


March 1732015

 春星へ回転木馬輪をほどく

                           対馬康子

遠に回り続ける回転木馬が、輪を解くことがあるとしたら。掲句はそんな想像から始まっている。春の夜にうっとりと灯る星空こそ、回転木馬たちの帰るところなのではないかと思う気持ちに強く共感する。先週、ピエロの句を鑑賞したが、回転木馬もまた楽しいような悲しいようなもののひとつである。日本最古の回転木馬は東京としまえんにある「カルーセルエルドラド」だという。1907年ドイツの名工によって作られ、ヨーロッパ各地を巡業したあと、アメリカのコニーアイランドの遊園地に渡り、1971年としまえんにやってきたという。100年の時を駆け続ける木馬の列に、うるんだ星のまたたきがやさしく手招いているように見えてくる。馬たちが春の空へと帰ってしまう前に、ひさしぶりに乗ってみたくなった。〈春の雲けもののかたちして笑う〉〈能面の目をすり抜けて蘖ゆる〉『竟鳴』(2014)所収。(土肥あき子)


March 2432015

 日のさくら月のさくらと咲きはじむ

                           鈴木多江子

年よりやや早いとの予想のなか、南から次々と開花宣言が続いている。これから、北海道釧路の満開予想5月15日まで、日本列島が今年の桜の彩られる。定点観測している近所の桜も、週末にはぎゅっと固くにぎりしめられたような蕾にピンクの嘴のようなほころびが見え始め、あとは日に夜にと咲き継ぐことだろう。朝に開き、一日の終わりにはしぼんでしまう花も多くあるなかで、昼の日差しに咲き、夜の月光に咲く桜はなんと奔放な花なのだろう。その自在さが、まるで日本列島を気ままに北上している旅人の足取りのようにも思えるのだ。桜はそんなことなどちっとも気にすることなく、今年も勝手に咲いて、勝手に散っていくのだろう。『花信』(1990)所収。(土肥あき子)


March 3132015

 日をひと日ひと日集めて猫柳

                           畠 梅乃

れほど行きつ戻りつした春の日差しもすっかり頼もしく、もう後戻りすることはないと信じられる力強さとなった。猫柳の花穂は絹のようになめらかさを持つ銀色の美しい毛で覆われる。その名は猫の尾に似ているところから付けられたというが、手ざわりは爪先あたりにそっくりで、猫を失った年など、何度も何度も撫でては思いを馳せていた。猫柳はまだ春の浅い頃に紅色の殻を割り、冷たい風にふるえるように身をさらし、春の日を丹念に拾いながらふっくらと育っていく。春の植物は美しいだけではなく、余寒の日々をけなげに乗り越えてきた姿を思いやることで、いっそう胸が熱くなる。掲句の「ひと日ひと日」にもその感動が表れている。〈竹皮を脱いできれいな背骨かな〉〈水平は傾きやすし赤とんぼ〉『血脈』(2015)所収。(土肥あき子)


April 0742015

 一人だけ口とがらせて入学す

                           福島 胖

学校、中学校、高校、大学と進学するごとに入学式を体験するが、期待と不安でこれほど胸を高鳴らせるのはやはり初めての入学式である小学校をおいてないだろう。みんなで遊ぶことが主だった幼稚園から、勉強する目的の小学校への入学は、子どもの心にどれほど大きな不安を感じさせることだろう。一年生になるためにランドセルを買ってもらい、自分だけが使う文房具が揃えられ、返事の練習などさせられてみたり、家庭のなかでもそこかしこでもそこかしこでプレッシャーが与えられる。一方、親はよその子と同じように元気に小学生になってくれたことが嬉しくて仕方がない。そんな晴れがましい場で、笑顔で胸を張る新一年生のなかでただ一人、わが子だけが不機嫌に口をとがらせているのを目撃してはっとする。いつもの癖かもしれないし、緊張からなるものかもしれない。それを微笑ましいとするか、落胆するかは親次第。昨日は多くの小学校で入学式が行われた。どこの会場でも口をとがらせたり、袖のボタンを噛んだりして、親をはらはらさせている新一年生がいたことだろう。『源は富士』(1984)所収。(土肥あき子)


April 1442015

 卵かけご飯大盛り山笑ふ

                           嶌田岳人

いご飯に生卵を落として食べる。今や卵かけご飯専用醤油まで販売されるほどメジャーになったが、やはりお行儀はあまりよろしいものではない。よろしくないからこそ、お茶碗に山盛りにしたご飯が似合うのだ。たびたび紹介している1928年に来日したイギリス女性、キャサリン・サンソムの『東京に暮す』に、日本人がご飯を食べる姿がこう書かれている。「ご飯をかき込む姿は、戸を一杯に開いた納戸に三叉で穀物を押し込む時のようで、大きく開けた口もとに飯茶碗を添えて、箸でせわしく動かしながらご飯を掻き込みます」そして「これがご飯をおいしく食べる方法なのです」と続く。おいしく食べている様子は、見ている側にも伝わるのだ。掲句では「山笑う」の季語が、山盛りのご飯のかたちとしても効いており、また「なんとおいしそうなこと!」と笑っているようにも思わせる。最後にお気に入りの卵かけ御飯レシピ。卵の白身と黄身を分けて、ます白味とご飯だけでぐるぐるっと混ぜる。たちまちふわふわのメレンゲ状になるので、そこに黄身を乗せ、くずしながら醤油などをたらして食べる。新鮮な卵が手に入ったらぜひお試しください(^^)〈瀧音といふ水の束解けたる〉の抒情や、〈どこまでがマンボーの顔秋暑し〉の俳味など、句柄の自在も魅力の一冊。『メランジュ』(2015)所収。(土肥あき子)


April 2142015

 土を出てでんぐり返る春の水

                           森島裕雄

元の歳時記によると「春の水」とは、豊かであることが本意であるとされる。水が「でんぐり返る」ことで、勢いよく豊富な水量を思わせ、また春らしい瑞々しさを感じさせる。それはまるで、生まれたばかりの赤ん坊が誕生してすぐ大きな泣き声をあげるように、暗い地中を這っていた水が、春の日差しに触れたことで、喜びにもんどりうっているようにも見えるのだ。水が流れとして誕生する瞬間に立ち会っている感動に、作者もまた胸をおどらせながら春の水面を見つめているのだろう。〈筍ご飯涙のやうな味がして〉〈立ち乗りの少年入道雲に入る〉『みどり書房』(2015)所収。(土肥あき子)


April 2842015

 春たけなは卵のなかの血流も

                           秦 夕美

けなわとはものごとのもっとも盛んになった頂点ともいえるとき。春のたけなわは光りに満ちあふれ、万象の命の健やかさに満ちる。卵もまた、ひしめく命そのもの。そこに脈打つ血流も春の高まりとともに今まさに生まれんと息づいている。固い殻と親鳥に守られた卵の世界と比べ、外の世界は危険がいっぱいにも関わらず、小さな命は一刻も早く外に出ようとせっせと育つ。日に日に増す春の深まりとともに、かわいらしい鳴き声ももうすぐ聞こえてくるに違いない。〈うらゝけし一枚たりぬ魔除札〉〈朝川やあうらに春のひしめきて〉『五情』(2015)所収。(土肥あき子)


May 0552015

 乗り継いでバスや都電や子供の日

                           小圷健水

日こどもの日。古来より男児の健全な成長を祝う端午の節句だったが、1948年に「こどもの人格を重んじ、幸福をはかるとともに、母に感謝する日」として国民の祝日となった。掲句は目的地に行く手段というより、乗り物好きの子供へのサービスのように思われる。赤ん坊や子供の乗りもの好きは、絵本や玩具に、あらゆる乗りものグッズが充実していることに表れている。わけても男児にその傾向が強く、プラレールに夢中になり、ミニカーを集め、なかにはすべての電車の名前をそらんじてしまう子もいるほどだ。それは鮮やかな色やかたち、規則的な動きなどに新鮮な刺激を受けていると考えられている。わが子がバスや都電にはずむように乗り込む姿に、父はふと遠い記憶を重ねる。乗りもの好きをさかのぼれば、それは抱っこや肩車から始まっていることに気づき、いっそう愛おしく思われるのだ。句集には〈大皿に向きを揃へて柏餅〉や〈ざつくりと二つに切つて菖蒲風呂〉も。子供の日の香り立つような時間がおだやかに描かれる。『六丁目』(2015)所収。(土肥あき子)


May 1252015

 初夏の木々それぞれの名の眩し

                           村上鞆彦

夏の日差しは、新緑を健やかに育み、木々は喜びに輝いているかのように光りを放つ。日に透けるような頼りない若葉たちも、日ごとに緑を深め、すっかりそれらしいかたちを得て、力強い影を落としている。掲句に触れ、街路樹に並ぶ初夏の木の名を確認しながら歩いてみた。鈴懸(すずかけ)、欅(けやき)、花水木(はなみずき)。鈴懸は鈴玉のような実をつけることから付いた名。秋には空にたくさんの鈴を降らせる。欅の「けや」は際立って美しいの意の「けやけし」に通じている。花水木は、根から水を吸い上げる力が強いことから水木。どの名も人間との深い付き合いから付けられたものだ。その名に胸を張るように木々を渡る風が薫る。『遅日の岸』(2015)所収。(土肥あき子)


May 1952015

 草笛を吹く弟の分も吹く

                           太田土男

笛はコツさえつかめばどんな葉でも音がするのだというが、一度として成功したためしがない。口笛さえ吹けないのだから当然といえば当然かもしれない。掲句では、幼い兄弟の様子とも思ったが、大人になってからの草笛と思い直した。ふと手に取った草の一片を唇に当て、昔通りの音が思いがけず出たとき、子供の頃の思い出がよみがえったのだろう。兄弟揃って吹いて歩いたなつかしい景色や、弟の背丈などがどっと押し寄せるように思い出される。今ここにいない弟の分を、もう一枚、草笛にして吹いてみる。きっとあの日と同じ苦いようなほこりっぽいような草の味が口中に広がっていることだろう。『花綵(はなづな)』(2015)所収。(土肥あき子)


May 2652015

 日傘差す人を大人と呼ぶ人も

                           杉田菜穂

焼けが大敵だと思うようになってからずいぶん経つが、たしかに20代前半は無防備に日に焼け、それほど後悔することもなかった。身軽が一番な年頃では雨も降っていないのに傘を差すなど、到底考えられないことだった。日傘は手がふさがるし、閉じたら閉じたで荷物になる。しかしその負担をおしてでも、年々歳々太陽光線は忌み嫌われ、しみしわ老化へ拍車をかける悪の根源として断固拒絶の意志をかためていく。大人とは衰えを自覚する人々のことなのだ。紫外線のUVAは5月がもっとも多いとされる。大人にとって油断大敵の今日この頃である。『関西俳句なう』(2015)所載。(土肥あき子)


June 0262015

 芍薬の蕾のどれも明日ひらく

                           海野良子

薬はしなやかでやさしい姿を表す「綽約(しゃくやく)」に由来するともいわれ、美人のたとえである「立てば芍薬」はすらりと伸びた茎の先に花を付ける様子を重ねている。咲ききった満開の美しさもさることながら、「明日、咲きます」のささやきが聞こえるほどのほころびは艶然と微笑む唇を思わせ、やわらかなつぼみの隙間から幾重の花びらがほどかれるきざしに、詰まった襟元をゆるめるようななんともいえない色気を感じさせる。約束された満開という幸福を待つ、このうえない幸せの時間。芍薬はつぼみの頃から蜜をこぼし、虫たちを招くという。これもまた芍薬のあやしい魅力のひとつなのかもしれない。『時』(2015)所収。(土肥あき子)


June 0962015

 踏石の歩巾に合はぬ夕薄暑

                           松島あきら

などに一定の間隔で置かれた踏み石は基本的には歩幅に合わせて計算されているようだが、石の大きさが歩幅に加味されていない場合もあり、テンポ良く歩くのはなかなか難しい。小さく小刻みに渡ればいいのだが、なんだか踏み石に歩幅が制限されているようで面白くない。二つ三つ歩くうちに、タイミングをつかんでも、そのうちまたズレてくる。薄暑とはうっすら汗ばむ陽気という比較的新しい気分を表す季語である。これを心地よいと捉えるか、わずかに憂鬱と捉えるかは個人差によるところが大きい。そのあたりも含め、言葉にするほどでもなく発生する現代人のささやかないらだちに見事に一致するように思われる。『殻いろいろ』(2015)所収。(土肥あき子)


June 1662015

 時鳥きよきよつと嗤ふ誤植文字

                           山元志津香

鳥(ほととぎす)の鳴き声の聞きなしは、「東京特許許可局」「てっぺんかけたか」など。私には舌足らず気味の「ここ許可局」と聞こえるが、掲句の作者には「きょきょ」が強調されているようだ。自身が関わっている冊子があると誤植は重大事である。活字時代は植字工が拾う活字の間違いが原因で起きたが、今ではパソコンでの変換ミスがもっとも多い。どちらにしても校閲段階で見つけられれば事なきを得るが、誤植というのはなぜか刷り上がった完成物で見つかる。発見したときの気持ちのさがりように反比例するように、誤植部分はめきめきと浮き上がり、紙面を飛び出すかのような勢いで目に飛び込む。作家半藤一利は「浜の真砂と本の誤植は尽きない」と嘆いたというが、ある程度の確率で発生するものとあきらめてはいても、あざけて嘲笑する「嗤ふ」が、自己嫌悪の度合いを象徴する。本欄でもたびたび発生するが、インターネットという流動的媒体の利点でこそっと修正し、翌日には幾分涼しい顔でいられる。それでも次からはご指摘のたび、時鳥の鳴き声が頭に響いてくるに違いない。『木綿の女』(2015)所収。(土肥あき子)


June 2362015

 夏至の日を機械の手入れして終わる

                           恒藤滋生

日は夏至。太陽が夏至点を通過し、北半球では一年で昼がもっとも長く、夜がもっとも短くなる。冬至と比べると、昼間の時間差は4時間以上にもなる。太陽を生活の中心とした生活からずいぶんと離れてしまった現代でも、同じ午後5時でもまだこんなに明るいというように、時間を基本としつつ日の長さを実感する。掲句は正確が取り柄の機械と、一年のなかで伸び縮みする太陽の動きとの取り合わせがユニーク。しかも、終日機械の手入れに関わっていたことで、人間はもう太陽とともに生きる生活には戻れないことも示唆しているようにも思われる。そこには、自然が遠く離れてしまったようなさみしさや切なさも漂うのだ。『水分』(2014)所収。(土肥あき子)


June 3062015

 形代のたぶん男の沈みをり

                           舟まどひ

日6月の晦日は夏越しの祓い。一年のちょうど真ん中にあたる日に前半期の罪や穢れを祓い、後半期の無病息災を祈願する昔ながらの風習。なにごとも半分あたりになると気を抜きやすくなりがちでもあり、大きな節目なのである。形代(かたしろ)は人の形をした紙に名前と年齢を書き、息を吹きかけたりしたのち、川などに流す。身代わりとなっている以上、分身として行方が気になる。早々に沈んだからどうかというものではないが、罪が重いほど早く沈んでしまうようにも思われる。作者が目にしているのは「たぶん」からして、複数の形代を流している。同じかたちでもう文字も見えるはずもなく、どれが自身のものかは分からないが、ここで即座にあれはおそらく男のものだと得心している。この無邪気で健やかな視線の持ち主に、のこり半年も幸多かれと願わずにはいられない。『これがかうなる』(2013)所収。(土肥あき子)




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