松納め。昔の江戸では六日だったが、いまでは七日が普通だろう。(哲




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January 0712015

 役者あきらめし人よりの年賀かな

                           中村伸郎

っから芝居がたまらなく好きで堅実に役者をめざす人、ステージでライトに照らし出される華やかな夢を見て役者を志す人、他人にそそのかされて役者をめざすことになった人……さまざまであろう。夢はすばらしい。大いに夢見るがよかろう。しかし、いっぱしの役者になるには、天分も努力も必要だが、運不運も大いに左右する。幸運なめぐり合わせもあって、役者として大成する人。ちょいとした不運がからんで、思うように夢が叶わない人。今はすっぱり役者をあきらめて、別の生き方をしている人も多いだろう。(そういう人を、私も第三者として少なからず見てきた)同期でニューフェイスとしてデビューしても、一方は脱落して行くという辛いケースもある。長い目で見ると、そのほうが良かったというケースもあるだろうし、その逆もある。このことは役者に限ったことではない。「役者をあきらめし人」の年賀をもらっての想いは、今は役者としての苦労もしている身には複雑な想いが去来するのであろう。親しかった人ならば一層のこと。そういう感懐に静かに浸らせてくれるのが年賀であり、年頭のひと時である。虚子の句に「各々の年を取りたる年賀かな」がある。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)


January 0612015

 抱かれたし白ふくろふの子となりて

                           森尻禮子

クロウは、鳥のなかでも、顔が大きく扁平で、目鼻立ちが人間に近い。ヨーロッパでは古くから「森の賢者」とされ、知恵の象徴としてきたが、日本では不吉なものだった。しかし、最近では「不苦労」「福来路」「福老」などと読み替えて、縁起を上乗せし、ウサギやカエルについで、小物などの収集家の多い生きものとなっている。シロフクロウといえば、「ハリー・ポッター」でハリーのペットとして登場し、その大きく、美しく、賢い姿に一時ペットとしての人気も急上昇し、「ふくろうカフェ」なる場所も今や話題だ。それしにしてもフクロウの子どもときたら、手のひらサイズで全身ふわふわ、うるうるの瞳をうっとり閉じる様子などとても猛禽類とは思えない可愛さである。ふくろうカフェの紹介には「鳥というより猫に近い」とあり、猫好きが心惹かれる道理と納得した。〈鷹狩の電光石火とはこれぞ〉〈鳰の巣に今朝二つめの卵かな〉『遺産』(2014)所収。名前の表記はネヘンに豊。(土肥あき子)


January 0512015

 獅子舞の目こそ哀しき平和かな

                           辻井 喬

句では「平和」というような抽象的直裁的な表現を嫌うようだが、それは使い方によるもので、この句では「平和」がよく効いている。獅子頭の目はただ黒々と丸く描かれたものだから、何の感情も宿してはいない。人形などのそれのように、だからこそ逆に見るものの見方によってさまざまな感情を表すことになる。句意は獅子の目を見ているとその大きく見開かれた瞳が、現今の「哀しき平和」の様態を映し出しているように見えるというわけだが、同じ「平和」と言ってもその様態はさまざまだ。「平和」とは単に戦争の無い様態を言うこともできるけれど、内容的には大きな深浅の違いがあるだろう。簡単に言っておけば、戦後日本の「平和」は、戦後十五年ほどが最も深かった。もう戦争は御免だという意識が国民的な広がりを持っていて、再軍備などはとんでもないという理屈以前の根拠が大きな力を持っていた。国は貧しかったが、こんな時代はおそらく史上はじめてだつたと思う。「平和を守れ」とは単なるお題目ではなかった、それが今はどうだろう。戦争を知る世代の作者は、大きな哀しみをもって、お題目と化しつつある浅き「平和」の様態を眺めているという図だ。何をかいわんや。空爆くらいしか戦争を知らない私にしてからが、いまの「平和」の浅さには呆然としてしまう。「毎日新聞」(2014年5月24日・夕刊)所載。(清水哲男)




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