節分のたびに思い出す。「もうあかん追儺の豆に歯が立たず」(小寺正三)。




2015蟷エ2譛3譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

February 0322015

 エンドロール膝の外套照らし出す

                           柘植史子

画の本編が終わり、キャストやスタッフの名が延々と流れるエンドロール。これが出た途端、席を立つせっかちな人もいるようだが、おおかたは映画の余韻に身を置きながら、日常へと戻っていく「次の間」のような時間を過ごす。少し明るくなった館内で丁寧に折りたたまれた外套に目を落としたとき、彼女は普段を取り戻す。そのあたりに浮遊したままの気持ちをかき集め、外套に押し込めるようにして席を立つ。それはほんの少し残念なような、それともほっとするような、映画を見終わったあとの独特の気分である。それにしても、最近のエンドロールは凝っていて、日常への入口にならない場合も多い。第60回角川俳句賞受賞。受賞作50句には〈受付の私語をさまよふ熱帯魚〉〈蜜豆や話す前から笑ひをる〉など。「俳句」(2014年11月号)所載。(土肥あき子)


February 0222015

 夫婦となり空につめたき日が一つ

                           八田木枯

感だろう。不思議に思う人がいるかもしれないが、「夫婦」という存在は、ときに独身のそれよりも小さく感じられることがある。二人だから一人よりも、世界が大きいとは限らないのだ。「肩寄せあって」とも言うように、二人だけだからこそ、一人ひとりそれぞれのの場所は狭くて小さいと思うときがある。ましてや寒い冬のさなかともなれば、空を行く日の光りも鈍くてつめたい。「夫婦」たるものは、そんな頼りなげな天空の下で、たった二人で生きていくのだという思いに、つまり二人きりであるゆえの孤独感にとらわれるのである。「夫婦となり」は必ずしも新婚を意味しない。この世に生を享け、数々の偶然事や必然事の果てに、縁あってとしか言いようのない結婚までたどりついた二人の運命のようなものを指している。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 0122015

 天の邪鬼虎落笛をば吹き遊ぶ

                           相生垣瓜人

五は「吹き遊(すさ)ぶ」とルビがあります。そこに、へそ曲がりな天の邪鬼のふるまいが表れています。天の邪鬼は、虎落笛(もがりぶえ)で冬の烈風を吹き遊んでいる。それを聞く人は、寒々とした心持ちになりますが、性根の曲がっている天の邪鬼は、聞いて怯える子どもらを笑い飛ばしています。しかし、天の邪鬼には悪気はなく、ふつうに冬将軍を楽しんでいるだけなのでしょう。だからかえってたちが悪い。そのような、天の邪鬼を主体とした句作が面白く、それは、季節を詠んでいるということにもなります。句集には他に、「虎落笛胡笳の聲にも似たらむか」があり、「胡笳(こか)」は、アシの葉を巻いて作った笛で、悲しい音が出るそうです。また、「徒然に吹く音あれや虎落笛」。この句の主体も、風が竹垣を奏でる冬を広くとらえたものでしょう。なお、「もがり」は古くは「殯」で、高貴な人を仮葬すること。後にその木や竹の囲いをもがりと呼びました。それが、戦場で防衛するための柵となり、虎落の名がついたといいます。以降、転じて、人を通さない縄をもがり縄と言い、横車を押す者、ゆすりたかりをもがり者というのもそこから出てきているようです。だから、天の邪鬼が虎落笛で遊ぶのは、然るべきなんですね。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(小笠原高志)




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