今日はまた気温がぐんと下がる予報。このところ天の機嫌が悪い。(哲




2015ソスN2ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1722015

 日の涯雪の涯の春動く

                           深谷雄大

にはどちらも「はたて」のルビ。北海道在住の作者にとって、実際の春の訪れはまだずっと先のことながら、だからこそわずかな変化にも敏感なのだと思われる。冬至から確実に日は伸び続け、昼間の長さによって季節の動きを実感する。俳句で使われる「日」には、陽光と一日という時間のどちらとも取れるものだが、掲句では、どこまでも続く地平の涯まで積もった雪の上に投げかけられたたっぷりの日差しが感じられる。「涯」の文字が、はるかかなたではあるが、確かに動いているのだという存在感にもつながっている。一面の雪の上に投げかけられた日差しはまるで春を招く風呂敷のように明るく広がり、北国の春がずっと向こうから一心に手を振っている。〈耳当てて根開きの樹の声を聴く〉〈水の面の雲逆流る春の天〉『寒烈』(2014)所収。(土肥あき子)


February 1622015

 子の家に居ても旅びと春浅し

                           石原フサ

節は多少違うが、小津安二郎の映画「東京物語」を思い出した。尾道で暮らす老夫婦が、成人して東京に出ている子どもたちの家を訪ねていく物語だ。別に邪険にされるわけではないが、何とない居心地の悪さを感じる旅なのだった。老父である笠智衆が東京の酒場で知り合いに会い、医者になっている長男のことを「羨ましい」と褒められると、毅然としていいかえす。「医者といっても町医者じゃ。私は不満じゃ。じゃけど、子どもにそう思うたら、いけん。そう思うのは親の欲目というもんじゃ」。ここにきて、人の子である観客は誰しもがほっとするわけだが、映画は親子のギクシャクとした関係をそのままに終わっていく。まだ少し寒さの残る早春の候に、家族関係を詠みこんだ巧さに膝を打った。『現代俳句歳時記 春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 1522015

 けふよりの妻と泊るや宵の春

                           日野草城

和九年。「ミヤコ ホテル」連作の第一句です。私は、学生時代に俳句好きの後輩に教わり、何人かで回し読みをしました。性に疎い青年たちが、貴重な情報を共有し合い、想像力を補完し合いながら来るべき日を夢想していました。実行が伴わず、それを想像力あるいは妄想で埋めようとする時期を思春期というのでしょう。昭和の終わり頃までの青年たちにとって、性的な情報は、活字、写真、体験談が中心で、動画情報はポルノ映画と深夜テレビに限られていました。しかし、パソコンを個人 所有できる現在、リアルな動画情報が、青年たちから妄想する力を奪い、共通の謎を語り合える場を奪っているのかもしれません。掲句は、新婚旅行の宵。「春の宵なほをとめなる妻と居り」貞操観念が確固としていた時代です。「枕辺の春の灯は妻が消しぬ」「をみなとはかかるものかも春の闇」こういうところに想像の余地があり、青年たちは口角泡を飛ばし議論します。「薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ」「妻の額に春の曙はやかりき」闇から光へと明るさが変化して、時の経過をたどれます。「うららかな朝の焼麵麭(トースト)はづかしく」連作の中で、唯一、音が存在しています。トーストを噛む音も恥ずかしい。青年たちの間で最も評判のよかった句です。「湯あがりの素顔したしも春の昼」「永き日や相触れし手は触れしまま」青年たちは、ここに理想を読みます。「うしなひしものをおもへり花ぐもり」この連作、若い世代に読み継がれたい。『日野草城句集』(2001)所収。(小笠原高志)




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