啓蟄。さて、私もそろそろ街中に顔を出そうか。蟄居はおしまい。(哲




2015ソスN3ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0632015

 尖塔になほ空のあり揚雲雀

                           長嶺千晶

の尖塔にはポルトガル行六句の前書きがある。牧歌的な農村に広がっているのは麦畑だろうか。そんな畑中にひとかたまりの村落があり、各村落ごとに教区を割り当てられた教会がある。その古びた教会の尖塔の上にはなお高く空が広がっている。その尖塔により強調された空の高みへ雲雀が囀り上ってゆく。そんな高みの中に命の讃歌をさんざんに唄いあげて、やがて雲雀は急転直下落ちて行く。受け止める大地と麦畑がそれを待っている。他に<木犀の香りや不意に話したき><騎馬少女黄葉かつ散る時の中><白鳥といふ凍りつく白さかな>などあり。『つめた貝』(2008)所収。(藤嶋 務)


March 0532015

 園児らの絵の春山は汽車登る

                           後藤比奈夫

どもの描く絵は楽しい。遠近法の呪縛に囚われないでまずは自分の感性でインパクトを受けたもの中心に描くからだろうか。「園児ら」になっているから、一人ではなく多数で写生しているのか、目前で見ている景色は同じでも描き方は違う。だけどぼっこりふくらんだ緑の山の斜面を大きな黒い汽車が煙を吐きながら登っていくところは共通しているのかもしれない。「絵の春山は」と強調しているところから作者が見ている絵の主役は汽車ではなく春山で、園児らがクレヨンで描くおおらかさが春の山の持つ解放感を引き出している。そのむかし校庭で写生をした折に緑一色で裏山を塗り始めたわたしに、「よく見てごらん、この芽吹きの季節に同じ緑でもいろんな色が混じっているだろう。一番山がきれいなときだ。空の光り方だって違うだろう」と言ってくれた美術の先生を思い出す。掲句の園児の絵のように気持ちを解放することも出来ず、節穴の目のまま年月は流れたが、今年も春の山はいきいきと冬の眠りから目覚め始める。『祇園守』(1997)所収。(三宅やよい)


March 0432015

 竹聴いて居る春寒の厠かな

                           尾崎紅葉

月4日の立春から一箇月過ぎても、まだ冬を思わせる日がある。春とは言え寒気はまだ残っている。「春寒」は「余寒」と同じような意味があるけれど、「春寒」は「春」のほうに重心がかかり、「余寒」は「寒」のほうに重心がかかるというちがいがあるようだ。「竹聴いて」は、厠の外に植えられている何本かの竹の枝葉を吹き抜ける風、まだ寒さの残るういういしい春風のかすかな音に、耳傾けているように思われる。厠でしばし息抜きをしている売れっ子文士の、つかの間の時間がゆったりと流れている。厠はまだ寒いけれど、春がすぐそこまで近づいていることに対する、うれしさも感じられるようだ。「竹」と「厠」の対応がしっくりして感じられる。紅葉は子規の「日本派」と対立する結社「秋戸会」の代表幹部だった。その俳句は小説家の余技の域を超えていたし、本格的に苦吟に苦吟を重ねたと言われる。死後に『紅葉山俳句集』『紅葉句帳』『紅葉句集』などが刊行された。他に「雪解や市に鞭(むちう)つ牛の尻」「子雀や遠く遊ばぬ庭の隅」など、本格的である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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