放送記念日。近年はテレビは疲れるので、もっぱらラジオ聴取。(哲




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March 2232015

 荒魂の陽の海に入る雪解川

                           飯田龍太

きなスケールの句です。春の太陽と海、そこに注ぐ雪解けの川。ますらをぶりの句です。「荒魂の」は枕詞で、「年・日・春」にかかります。掲句では「陽」にかかり、また、句全体である春の景にもかかっているでしょう。枕詞は、音楽でいえばイントロのような働きがあり、絵画でいえば、色や形のイメージをあらかじめ想起させるような働きがあります。万葉集の長歌で使われる場合、とくに人麻呂の長歌には朗唱性に弾みをつける働きもありました。掲句では、この三つの要素に加えて、意味性も考えら れます。つまり、「陽」も「海」も「荒魂」であるという意味です。「陽」は、四方八方に乱反射し、「海」は、うねり寄せ返す荒くれ者です。春になって日脚が伸び、海のうねりには輝きが交錯し、海中の生きものたちも活気を帯びてきます。山に積もっていた雪は、解け出して雪解川となり荒魂の陽の海に入ります。太陽の光と熱が冬を解かして春を弾かせています。spring!『山の木』(1975)所収。(小笠原高志)


March 2132015

 うつそりやお彼岸だけの傭ひ所化

                           田中田士英

岸中日でもあることだしと『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)をぱらぱらと見ていたらこの句があったが、一読して意味がよくわからない。まず、うっそり。調べると、ぼんやり、のっそり、という意味の副詞、うっかりしている様、人、といった名詞、形容動詞とある。次に、所化(しょけ)、これは修行僧のことらしい。つまりは、お彼岸の忙しい時に駈りだされている修行中のお坊さんが、忙しさのあまりかまだ修行が足りないからか、どうもぼんやりと頼りなく心ここにあらずのような感じがする、あるいはミスを連発してやれやれ、といったところか。作者は明治八年生まれの小学校教師というから、かなり厳格であったと思われ、うつそりや、の切れに、喝、の文字がにじみ出ている。(今井肖子)


March 2032015

 木漏日や雉子鳴く方へあゆみゆく

                           宮本郁江

太郎の岡山でなくとも日本中の河川敷きや藪廻りのどこにでも居る。まして農家の田畑の廻りでは今でも普通にみられる。小生の柏地区の利根川、江戸川ではよく遭遇する。ただ老眼の小生にはカラスっぽく見えるのだがバードウオッチのニコンのレンズを通せば立派に識別できる。早春の妻恋ひどきになれば人目憚らず鳴きしきるのである。木漏れ日の中カラスと見紛えていた旅人は「おお」とその方角へ歩み寄ってゆく。雉はケンケンと鳴く。<馬小屋に馬の表札神無月><人気なき午後の鞦韆風がこぐ><病む人に日曜はなく秋桜>。『馬の表札』(2014)所収。(藤嶋 務)




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