2015N415句(前日までの二句を含む)

April 1542015

 花冷えを分けて近づく霊柩車

                           嵩 文彦

の開花はもちろん年によって一定ではない。今年、東京では3月末に満開になった。私は4月2日に好天に恵まれて、地元の船橋で満開の花見をした。また市川の公園で、親しい友人たちと30年以上毎年お花見をやってきたが、今年は高齢や何やかやあって男4人しか集まらず、上野の飲み屋で昼酒を飲んで、お山の葉桜をさらりとひやかして解散となりそう。さて、来年はどうなりますることやらーー。「花冷え」は、桜が咲くころに決まってやってくる寒さのことである。確かにそんな日があるし、夜桜見物は寒くてストーブを持ち込んで、ということも珍しくない。それでも桜は桜、春は春。誰の気持ちも浮き浮きする。しかし、一方で人の死は季節を選ぶことなく待ったなしである。霊柩車は花冷えのなかを走ることも、満開の花に見送られて走ることもある。文彦には詩集も詩画集も何冊かあるけれど、句集も『春の天文』から、これが4冊目である。「表現者は個に徹し、個を深く追求してゆくべきだ」「心安く自然と和合することなく」という句集のあとがきが心に残る。他の句に「隙間ある頭蓋に残る花月夜」がある。『天路歴程2014』(2014)所収。(八木忠栄)


April 1442015

 卵かけご飯大盛り山笑ふ

                           嶌田岳人

いご飯に生卵を落として食べる。今や卵かけご飯専用醤油まで販売されるほどメジャーになったが、やはりお行儀はあまりよろしいものではない。よろしくないからこそ、お茶碗に山盛りにしたご飯が似合うのだ。たびたび紹介している1928年に来日したイギリス女性、キャサリン・サンソムの『東京に暮す』に、日本人がご飯を食べる姿がこう書かれている。「ご飯をかき込む姿は、戸を一杯に開いた納戸に三叉で穀物を押し込む時のようで、大きく開けた口もとに飯茶碗を添えて、箸でせわしく動かしながらご飯を掻き込みます」そして「これがご飯をおいしく食べる方法なのです」と続く。おいしく食べている様子は、見ている側にも伝わるのだ。掲句では「山笑う」の季語が、山盛りのご飯のかたちとしても効いており、また「なんとおいしそうなこと!」と笑っているようにも思わせる。最後にお気に入りの卵かけ御飯レシピ。卵の白身と黄身を分けて、ます白味とご飯だけでぐるぐるっと混ぜる。たちまちふわふわのメレンゲ状になるので、そこに黄身を乗せ、くずしながら醤油などをたらして食べる。新鮮な卵が手に入ったらぜひお試しください(^^)〈瀧音といふ水の束解けたる〉の抒情や、〈どこまでがマンボーの顔秋暑し〉の俳味など、句柄の自在も魅力の一冊。『メランジュ』(2015)所収。(土肥あき子)


April 1342015

 百歳の日もバスとまり蠅がたつか

                           竹中 宏

文的な意味での句意は明瞭だ。百歳になった日にも、バスはいまと同じように動き、蠅はたっているであろうか、と。それ以上の解釈はできない。だが、この句の面白さは、百歳になる日を作者は決して待ち望んだりしていないところにある。それがどこでわかるのかと言えば、いまと変わらぬ日常を指し示すものとして、「バス」と「蠅」を持ってきたところにあるだろう。「バス」と「蠅」はお互いに何の関連もないし、特別に作者の執着するものでもない。そのようなどうでもよろしい日常性を提示することで、作者にとっての「百歳」もまた、どうでもよろしい年齢となるわけだ。この二つの事項を、たとえば作者の愛着するものなどに置き換えてみると、そこで「百歳」は別の趣に生まれ変わり、そこまでは何とか生きたいという思いや、生きられそうもないことへの悲痛を訴える句に転化してしまう。そうしたことから振り返れば、句の「バス」も「蠅」もが、実は作者の周到な気配りのなかから選ばれた二項であることがわかるのだ。「バス」も「蠅」も、決して恣意的な選択ではないのであった。俳誌「翔臨」(第82号・2015年2月)所載。(清水哲男)




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