今日はは全国的に晴れの予報。やっと本格的な春が来たようだ。(哲




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April 2242015

 早蕨よ疑問符のまま立ちつくせ

                           狩野敏也

どものころ蕗の薹の時季が終わると、すぐ薇や蕨採りに野へ山へと走りまわったものである。あの可愛くておいしそうな蕨の「拳のかたち」を、土の上に発見したときの喜びは格別だった。今でさえ時々夢に見るほどである。まさに「……早蕨の萌え出づる春になりにけるかも」である。蕨の季語には「早蕨」もあるが、「老蕨」もあるのが可笑しい。うっかりしていると、たちまち拳を開いてのさばってしまう。早蕨のかたちを「拳」とか「拳骨」と称するけれど、敏也は「疑問符」ととらえてみせた。そう言われれば、なるほど「疑問符」にも見えるし、「ゼンマイ」のようにも見える。「薇」は芥川龍之介の句に「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」があったなあ。ここでは蕨の形体にとどまらず、中七・下五は蕨に対して「成長とともに開いてしまうのではなく、いつまでも疑問符をもちつづけ、物事を簡単に了解するなよ」という作者の気持ちがこめられているように、私には思われる。これは早蕨を自分に見立てて、詩人が自分に対して「立ちつくせ!」と言っている、一つの姿勢なのではないか。そんなふうにも解釈したい。他に「譲ること多き日々衣被」がある。「花村花2015」(2015)所収。(八木忠栄)


April 2142015

 土を出てでんぐり返る春の水

                           森島裕雄

元の歳時記によると「春の水」とは、豊かであることが本意であるとされる。水が「でんぐり返る」ことで、勢いよく豊富な水量を思わせ、また春らしい瑞々しさを感じさせる。それはまるで、生まれたばかりの赤ん坊が誕生してすぐ大きな泣き声をあげるように、暗い地中を這っていた水が、春の日差しに触れたことで、喜びにもんどりうっているようにも見えるのだ。水が流れとして誕生する瞬間に立ち会っている感動に、作者もまた胸をおどらせながら春の水面を見つめているのだろう。〈筍ご飯涙のやうな味がして〉〈立ち乗りの少年入道雲に入る〉『みどり書房』(2015)所収。(土肥あき子)


April 2042015

 待ちどほしきことなくなりぬ春の闇

                           矢島渚男

田夕暮のこの歌「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」は、青春時代の愛唱歌だった。この句を読んで思い出した。結婚は人生上での大きな「待ちどほしきこと」であり、歌に込められた歌人の待ち遠しい思いは、十代の少年にもよく理解できたのだった。若い間の待ち遠しいことどもは、結婚、あるいは進学や就職などのように、多く社会制度に関連しており、そのシステムに参加することで実現されてゆく。子供のころの運動会や遠足などについても同様である。したがって、実現の度合いに満足できるかどうかは別にして、たいていの「待ちどほしきこと」は、待っていればそのうちに実現するものだと言ってよいだろう。一見社会的システムへの参加とは無関係のような、たとえば創作意欲の実現などについても、よく考えてみれば、これまた社会制度と無関係ではあり得ないことがわかる。ところがある程度の年齢を過ぎると、当人の存在そのものが物理的に社会システムのあれこれから外れていくから、句のようなことが起きてくる。しかも、そのことを受けとめる気持ちは淡々としたものなのだ。この気持ちのありようが、「春の闇」にしっくりと溶け込んでいる。『延年』所収。(清水哲男)




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