2015N424句(前日までの二句を含む)

April 2442015

 九官鳥同士は無口うららけし

                           望月 周

官鳥は人や動物の声真似、鳴き真似が上手で音程や音色だけでなく抑揚までも真似する。この習性を利用し人は言葉を教えて飼い慣らす。日頃から色々と話しかけて根気よく付き合ってゆく。鳥と人間の相棒関係が頻繁な言葉の話し掛けによって構築されてゆく。真偽は定かでないが、飼主であった九官さんの名を発生するので九官鳥と名付けられたという。そんな九官鳥もお相手が同類の九官鳥となると無口なってしまうとか。真似事ばかりして本来の鳥語を忘れてしまったか。明るい春の陽を浴びて、のんびりと長閑であるのもいいものだ。<流灯の白蛾を連れてゆきにけり><流れ星贈らんと連れ出しにけり><一本の冬木をめがけ夜の明くる>など。『白月』(2014)所収。(藤嶋 務)


April 2342015

 たんぽぽを活けて一部屋だけの家

                           佐藤文香

ンポポは野原で明るい日差しを受けて輝く花、摘んできてもだんだん首を垂れてしぼんでしまう。例えば母親のために子どもがタンポポを摘んで、はいと渡す。渡された花はコップに挿されて母親の胸を暖かくする。たわむれに持ち帰るたんぽぽはそんな光景を想像させる。掲句では野の花を「活ける」、一部屋なのに「家」という言い回しに殺風景なアパートの一室を満たしている若さを感じる。「家」と呼ぶのは自分を同じ時間と空間を共有する相手があってこそのもの。そんな「君」との恋愛がこの句の下敷きにあるのだろう掲句が収められている句集には定型のリズムをはずれての句またがりをはじめ様々な試みが見られる。これなら短歌やほかの詩形でもと思わないでもないが、俳句でこそ詠むことでこの人独自の世界を築こうとしているのだろう。『君に目があり見開かれ』(2014)所収。(三宅やよい)


April 2242015

 早蕨よ疑問符のまま立ちつくせ

                           狩野敏也

どものころ蕗の薹の時季が終わると、すぐ薇や蕨採りに野へ山へと走りまわったものである。あの可愛くておいしそうな蕨の「拳のかたち」を、土の上に発見したときの喜びは格別だった。今でさえ時々夢に見るほどである。まさに「……早蕨の萌え出づる春になりにけるかも」である。蕨の季語には「早蕨」もあるが、「老蕨」もあるのが可笑しい。うっかりしていると、たちまち拳を開いてのさばってしまう。早蕨のかたちを「拳」とか「拳骨」と称するけれど、敏也は「疑問符」ととらえてみせた。そう言われれば、なるほど「疑問符」にも見えるし、「ゼンマイ」のようにも見える。「薇」は芥川龍之介の句に「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」があったなあ。ここでは蕨の形体にとどまらず、中七・下五は蕨に対して「成長とともに開いてしまうのではなく、いつまでも疑問符をもちつづけ、物事を簡単に了解するなよ」という作者の気持ちがこめられているように、私には思われる。これは早蕨を自分に見立てて、詩人が自分に対して「立ちつくせ!」と言っている、一つの姿勢なのではないか。そんなふうにも解釈したい。他に「譲ること多き日々衣被」がある。「花村花2015」(2015)所収。(八木忠栄)




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