全国的に晴れ、それも夏日とはね。どこか変だ、何か変だ。(哲




2015ソスN4ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2742015

 臍の緒を家のどこかに春惜しむ

                           矢島渚男

句自解で、作者はこう書いている。「小さな桐の箱に入った自分の臍の緒を見たことがあった。たしかここだったと思って、もう一度探したが出てこない。どこかへいってしまったらしい。どうしたのだろう。そんな思いがあって浮んだ句だった」。私も、まったく同じ体験をしたことがある。母から臍の緒を見せられたのは、小学生のころだったが、その桐の箱は母が嫁入りのときに持ってきた桐の箪笥の小さな引き出しにしまわれていた。その箪笥は数度の引越しのたびに新居に納められ、いまでも実家の六畳間に健在だ。しかし、箪笥は健在だが、引き出しの臍の緒は忽然と姿を消していた。まるで春の霞か靄のように、いつしか霧消していたのだった。この句の「春惜しむ」も、そんな気分の表現なのだろう。『木蘭』所収。(清水哲男)


April 2642015

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

は、水行く季節でもあったのですね。雪解けの水は、山から谷へ、谷から里へ流れて行きます。樹木、草花、農作物は、根から水を吸います。昆虫も魚も鳥も動物たちも、水行く季節になると捕食と生殖活動を活発化させていき、体液の循環も盛んになるでしょう。動植物を支えている大気から地表、地下水まで、水行く水量は増していきます。それは、暖かくなってきたからです。温度が上がると水の分子の運動も活発になる。当たり前ですね。そんな暮春の候の句ですが、ここからは、二つの見解が可能です。一つ目は、中七で切って読む場合です。森羅万象の活動は、人も含めて全て「途中」なのだという見解で、水行きには終点がないということです。水は循環している から常に「途中」です。 二つ目は、中七で切らない場合です。そうすると、「春の暮」が句の主眼になってきて、冬を過ぎて暮春になったから、水行きは活発なんだという見解になります。どちらを選ぶかは、各人の好みになるでしょうが、句から驚きを得られるのは、前者です。なぜなら、無常観を「途中」という俗語で言い表しているからです。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)


April 2542015

 もつれつゝとけつゝ春の雨の糸

                           鈴木花蓑

つれてとける糸、とはいかにも春の雨らしく美しいが、今頃の雨は遠い記憶を呼び起こす。確か中学二年の春、理科氓フ授業で自然落下の公式を教わったその日も、先生の声を遠く聞きながらぼんやり雨の窓を見ていたのだがふと、雨の速さってどのくらいなんだろう、と考えた。帰宅して、雲の高さから習った公式で雨が地上に着くまでの秒数を計算してそこから時速を計算すると、確か九百キロ近くに。うわ大変、傘に穴が開く・・・しかし窓の外の雨は静かにもつれてとけていたのだった。翌日、先生が空気抵抗の話と共に実験を見せて下さりほっと納得したのだが、晩春の雨の記憶は未だマッハの衝撃と共にある。『ホトトギス 新歳時記』(2010・三省堂)所載。(今井肖子)




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