箱根山の火山鳴動がつづいている。写真は昨年末に撮影したもの。(哲




2015ソスN5ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1052015

 用もなき母の電話や柿の花

                           荻原正三

間の関係の中でも、息子と母親との関係は特別です。胎児として母体の中にいるときは、完全な従属関係にあります。誕生後の一年間もほぼそれに等しく、保育園や幼稚園に通うようになって、少しずつ外の人間関係をもてるようになっていきますが、小学校に上がる頃までは、おおむね、母親に従属していたい願望は強いものです。ところが、息子が思春期を迎え、青年、成人、老人と年齢を重ねるにしたがって、母親を一個の他者として見ていくようになります。その関係性は母親に対する呼称に 顕著に表れていて、私の場合は、「ママ、和子さん、おふくろ、おふくろさん」。ちなみに父親の場合は、「パパ、おやじっこ、おやじ、おやじさん」。こう振り返ると、思春期の親子関係は揺らいでいたんですね。「おふくろさん、おやじさん」と「さん」づけできるようになって、ようやく親子関係もふつうの人間関係に伍するものになってきたようです。私の場合「ママ、パパ」から始まったので「さん」づけできるようになるまでに二十年以上かかりました。幼少の頃、甘えん坊だった息子は、思春期には従属関係を脱して、対等な人間関係を目指すようになりました。さて、掲句は作者六十歳前後の作品で、切れ字の「や」には軽い嘆きがあり、共感します。おおむね母親は用もない電話をする存在で、こ ちらが忙しいときは甚だ迷惑です。母親がもっている息子像は、胎児であったときの記憶をふくんで理想化されているのに対し、息子がもつ母親像は、理想から出発しているゆえにしぼんでいくしかない面があります。だから、息子が齢を重ねるほどに、反りが合わなくなる場合もでてくるのでしょう。もちろん、世間には、大野一雄や永田耕衣のように生涯にわたって母を慕いつづけた息子もたくさんいます。われわれを一般的と思ってはいけません。ところで、下五を「柿の花」で終えているのも侘しい気がします。柿の花は黄白色の壺型で、葉の陰から地面に向けてうつむくように咲きます。俳人でもなければ、この花に心を寄せる人は少ないでしょう。しかし、この花があればこそ秋には柿が実ります。そう 考えると母の日の今日、おふくろさんありがとう。『花篝』(2008)所収。(小笠原高志)


May 0952015

 薔薇咲くや生涯に割る皿の数

                           藤田直子

り乱れる薔薇の花弁から割れた皿の破片を思い浮かべるのと、割れてしまった皿の欠片を見た時そこに薔薇のはなびらが重なって見えるのとでは印象が異なるだろう。割れた皿の欠片からさえ、美しく散る薔薇を連想するという想像力と美意識が、この作者の凛とした句柄には似合っているのかもしれない。しかしまた、広い薔薇園で散り始めた無数ともいえる花弁の色彩やふくよかな香りの中にいながら、ふと硬く尖った陶器の破片が音を立てて散らばった一瞬を思う、というのも捨てがたい。いずれにせよ、生涯に割る、という一つの発見までの時間の経過を共有することで読み手も一歩踏み込むことができ、咲くや、により薔薇はなお生き生きと強い生命力を持ちそれが前を向いて進む作者の姿に重なる。『麗日』(2014)所収。(今井肖子)


May 0852015

 口あけて顔のなくなる燕の子

                           大串若竹

は春に渡来して人家とか駅舎とか商店街の軒先とかに巣を作って産卵し育て、秋には南方に去る。その尾は長く二つに別れた、いわゆる燕尾である。人間に寄り添って巣を作るので燕の子にも一段と親しみを覚える。毎日その成長を見上げては楽しんでいるのだが、子は四五匹ほど居るので生存競争も激しそうだ。精一杯口をあけて顔中を口にして、親鳥の餌をねだる。ねだり負ければ成長に負ける事になる。それを見上げる人間も口をいっぱいに飽けて眺める事とはなる。<風鈴の百の音色の一つ選る><甚平やそろばん弾く骨董屋><母の日に母に手品を見せにけり>なども所収される。『風鈴』(2012年)所収。(藤嶋 務)




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