良い天気は今日までのようだ。どこかにブラブラと行ってみよう。(哲




2015ソスN5ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1752015

 箸置きを据ゑて箸置く薄暑かな

                           岩淵喜代子

の美学です。主は、箸置きと箸を膳という平面に据え置いて、会食の起点を設置しています。それは、客のお手元です。今のところ他には何もない。料理はまだ運ばれていません。何もない空間だからこそ、料理はつぎつぎに運ばれる余地があり、客も主も箸を使い箸を置き、自由にふるまえます。演出家のピーター・ブルックに『何もない空間』という著作があります。舞台上で俳優が演技の自由を獲得するためには、大道具・小道具・舞台美術を最小限にすべきだという演出論です。たしかに、彼の舞台でよく使われる小道具は一本の長い棒で、それは時に空間の仕切りとなり、時に槍になります。一本の棒があれば、俳優と観客との想像力によって舞台空間は可動的になります。むしろ、豪奢な大道具はそれが足かせとなって、舞台を固定的にすることがあり、ピーター・ブルックは、著書の中でそれに警鐘を鳴らしています。そんなことを思い返しながら掲句を読むと、一膳の箸は、一本の棒のごとくシンプルゆえに自在です。挟み、運び、切り、刺す。客と主の所作には、もてなされもてなす遊びの心がありましょう。その舞台が膳であり、箸は巧みに動きつくして箸置きに置かれます。さあ、紗袷せに身を包んだ粋客がいらっしゃいました。やや汗ばんだ肌を扇子であおぎながら、正座して膳につきました。『白雁』(2012)所収。(小笠原高志)


May 1652015

 さんさんと金雀枝に目があり揺れる

                           佐藤鬼房

関先に金雀枝の大ぶりの甕のような鉢が置いてあり花盛りだ。ほとんど伸び放題でどんどん咲いて散っているが、くたびれてぼんやり帰宅した時その眩しさを超えた黄に迎えられるとほっとする。我が家の金雀枝は黄色一色だが、掲出句のものは赤が混じっている種類だろう、おびただしい花の一つ一つが目のように見えている。一般的に、小さいものがぎっしり、という状態はそれに気づくとちょっとぞわっとするものだ。筆者にとってはピラカンサスや木瓜の花などがその類なのだが、作者にとってこの金雀枝はそうではない。金雀枝の風に遊ぶ自由な枝ぶりと初夏の光を湛えた花の色が、さんさんと、という言葉を生んで明るい。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


May 1552015

 いつまでも夕日沈まず行々子

                           森田 峠

ョウギョウシ、ギョウギョウシ、ケケシ、ケケシと鳴くので行々子と言われる。河川や湖沼の葦原などに生息する葭切にオオヨシキリとコヨシキリがある。このオオヨシキリの鳴き声がこれである。コヨシキリはピピ、ジジジと聞こえる。オスが高い葦の茎に直立した姿勢でとまり、橙赤色の口の中を見せてさえずっている。夏の日の中々沈み切らない夕まずめにいつまでも鳴き続けている。夏の日の長いこと。他に<歌うたひつヽ新妻や蒲団敷く><四戸あり住むは二戸のみ時鳥><少しづつかじるせんべい冬ごもり>など。「俳壇」(2014年11月号)所載。(藤嶋 務)




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