昨日出かけた霊園に、こんな墓石が。見えますかねえ。(哲




2015ソスN5ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 3152015

 美しくかみなりひびく草葉かな

                           永田耕衣

鳴が響く。草葉は、一瞬輝く。もし、この読みの順番でいいのなら、一句の中に二つの雷を詠んでいることになります。雷は、光の後に音がとどいて完結するからです。ところで、「美しく」という抽象的な表現は、俳句ではふつう避けられます。では、なぜ掲句ではその使用が許されるのでしょうか。理由の一つは、雷は視覚と聴覚の両方を備えている点であり、もう一つは、掲句が天上と地上という広大な空間を詠んでいる点です。抽象表現なら、この異なる二つの性質を包含できるからでしょう。次に、中七は、なぜひらがな表記なのかを考えます。「かみなり」は、「雷、神鳴り、神也、上鳴り」など、掛詞を考えさせられて、読み手をしばらく立ち止まらせます。これに「ひびく」をつなげると、「上、鳴り、響く」という縁語的な読み方も可能になります。上五から、美しく烈しい雷鳴は、中七まで下りてきますが、「ひびく」は終止形なので、雷鳴の音はここで断 絶します。ここまでが、雷第一弾。しばらく、沈黙と暗黒が続いた後に、閃光は、草葉の鋭角的な一本一本を瞬時、輝かせます。これが、雷第二弾の始まり。やがて、雷鳴は、沈黙と暗黒が続いたしばらく後にとどきます。作者の第一句集から。『加古』(1934)所収。(小笠原高志)


May 3052015

 山滴り写真の父は逝きしまま

                           辻 桃子

くなられたお父様の写真が窓辺に飾ってある。その窓は正面に山、雪に閉ざされている間は白一色だ。そして次第に色をほどいて光に包まれ、さらに緑を深めつつ新緑から万緑へふくらんでゆく。窓辺の写真は変わらず優しい微笑みを投げかけているが、その微笑みは永遠であるがゆえ、もう二度と蘇ることはない。山に命の源である滴りが満ち溢れる季節にはひとしお、淋しさが滲んでくるのだろう。ちなみに常用の歳時記には、滴り、はあるが、山滴る、は載っていない。『合本俳句歳時記』(2008・角川学芸出版)には、「夏山蒼翠として滴るが如し」から季語になった、と書かれているが確かに、春秋冬の、山笑ふ、装ふ、眠る、に比べると、山を主語に考えた時異質な気がする。もちろん景はくっきりと分かるのだけれど。『馬つ子市』(2014)所収。(今井肖子)


May 2952015

 青鷺の常にまとへる暮色かな

                           飛高隆夫

鷺は渡りをしない留鳥なので何時でも目にする鳥である。東京上野の不忍池で観察した時は小さな堰に陣取り器用に口細(小魚)を抓んでいた。全長93センチにもなる日本で最も大きな鷺であり、餌の魚を求めてこうした湖沼や川の浅瀬を彷徨いじっと立ち尽くす。その姿には涼しさも感じるが、むしろ孤独な淋しさや暮色を滲ませているように感じられるのである。他にも<藤垂れて朝より眠き男かな><耳うときわれに妻告ぐ小鳥来と><よき日和烏瓜見に犬連れて>などが心に残った。「暮色」(2014)所収。(藤嶋 務)




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