暑かった五月。といって今日から涼しくなるわけじゃないけどね(哲。




2015ソスN6ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0162015

 バス停の屋根は南瓜の花盛り

                           富川浩子

かにも初夏らしいが、ちょっと珍しい情景。微笑を浮かべる読者が多いだろう。バス停にグリーンのカーテンをかけて、乗客に涼を呼ぶ効果をねらったものかもしれない。だが、戦中戦後の一時期を知っている私などには、涼を呼ぶどころか暑苦しさしか迫ってこない。バス停の屋根どころか、当時は民家の屋根にまで南瓜が栽培されていた。むろん、食料不足を補うための庶民の智慧がそうさせたものである。そして、南瓜が熟れるころともなると、どこの家庭でも食事ごとにほとんど主食として南瓜が食卓に上がったものだった。来る日も来る日も南瓜ばかり。嘘みたいな話だが、人々の顔が黄色くなっていった。だから私より上の年代の人のなかには、いまだに南瓜を嫌う人が多い。同じ句を読んでも、感想は大いに異なる場合があるということです。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


May 3152015

 美しくかみなりひびく草葉かな

                           永田耕衣

鳴が響く。草葉は、一瞬輝く。もし、この読みの順番でいいのなら、一句の中に二つの雷を詠んでいることになります。雷は、光の後に音がとどいて完結するからです。ところで、「美しく」という抽象的な表現は、俳句ではふつう避けられます。では、なぜ掲句ではその使用が許されるのでしょうか。理由の一つは、雷は視覚と聴覚の両方を備えている点であり、もう一つは、掲句が天上と地上という広大な空間を詠んでいる点です。抽象表現なら、この異なる二つの性質を包含できるからでしょう。次に、中七は、なぜひらがな表記なのかを考えます。「かみなり」は、「雷、神鳴り、神也、上鳴り」など、掛詞を考えさせられて、読み手をしばらく立ち止まらせます。これに「ひびく」をつなげると、「上、鳴り、響く」という縁語的な読み方も可能になります。上五から、美しく烈しい雷鳴は、中七まで下りてきますが、「ひびく」は終止形なので、雷鳴の音はここで断 絶します。ここまでが、雷第一弾。しばらく、沈黙と暗黒が続いた後に、閃光は、草葉の鋭角的な一本一本を瞬時、輝かせます。これが、雷第二弾の始まり。やがて、雷鳴は、沈黙と暗黒が続いたしばらく後にとどきます。作者の第一句集から。『加古』(1934)所収。(小笠原高志)


May 3052015

 山滴り写真の父は逝きしまま

                           辻 桃子

くなられたお父様の写真が窓辺に飾ってある。その窓は正面に山、雪に閉ざされている間は白一色だ。そして次第に色をほどいて光に包まれ、さらに緑を深めつつ新緑から万緑へふくらんでゆく。窓辺の写真は変わらず優しい微笑みを投げかけているが、その微笑みは永遠であるがゆえ、もう二度と蘇ることはない。山に命の源である滴りが満ち溢れる季節にはひとしお、淋しさが滲んでくるのだろう。ちなみに常用の歳時記には、滴り、はあるが、山滴る、は載っていない。『合本俳句歳時記』(2008・角川学芸出版)には、「夏山蒼翠として滴るが如し」から季語になった、と書かれているが確かに、春秋冬の、山笑ふ、装ふ、眠る、に比べると、山を主語に考えた時異質な気がする。もちろん景はくっきりと分かるのだけれど。『馬つ子市』(2014)所収。(今井肖子)




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