巡ってきた6、15。あのときの首相は安倍総理の祖父の岸信介だった。(哲




2015ソスN6ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1562015

 百姓の朝のたばこや蓮開く

                           上野 泰

の農村育ちだから、この情景はお馴染だ。蓮が開きはじめるのは今頃くらいからだから、初夏の朝である。田植えも終わって、早朝から植田を見回って一服つけているところだろう。世の中が動きだす前の平和で静かな時間。良い香りの紫煙が流れてゆく。子供心にも、この煙草は実に美味そうに思えた、いや、実際にも美味かったのだろう。こうした情景は当然、子供の好奇心にも火をつけた。遊び仲間とかたらって、何度か煙草を吸おうとチャレンジしようとしたが、本物の煙草が手に入らない、仕方がないので藁しべに火をつけて吸ってはみたものの、ただいがらっぽくて「朝のたばこ」どころてはなかった。たいていの人は映画の影響などで煙草に目覚めるようだけれど、私(たち)の場合には、フィクションではなくて現実に根ざしていたわけだ。最近は嫌煙の波が都会といわず農村にも押し寄せているけれど、健康第一のかわりに人間が失うものも大きいよ、などと思ったりしている。『花神コレクション・上裡泰』(1994)所収。(清水哲男)


June 1462015

 神にませばまこと美はし那智の滝

                           高浜虚子

は夏の季語です。しかし実際は、昭和8年4月、南紀に遊んだ時の作句です。参道の脇には句碑が建っています。一方、山口誓子は昭和43年、前書を那智として「鳥居立つ大白滝を敬へと」と詠みました。私も初めて那智に行ったとき、鳥居をくぐると本殿・社殿はなく、じかに大白滝を拝むことに驚きました。それまで神道にはほとんど関心がなかったのですが、「那智の滝が枯れる時は世界が終わる時」という言い伝えは聞き及んでいたので、たしかに、この滝が枯れたら那智川流域の植物も枯れてしまうと思いました。ここ、飛瀧神社は、那智の滝を中心にして成り立っている鎮守の森の生態系それ自体を聖域とみて、鳥居で俗界と区切り、滝の下り口には注連縄を渡して神さ まであることを示 しています。那智の滝は、植物にも動物にも人にも水を与え、元気にしてくれます。それが、神さまのはたらきなのでしょう。また、鳥居をくぐり抜けて滝をおがむ者は、133mの落差のなか、水が多様に変化しながら落ちていく様を見ます。滝壺からは轟音がこだまして、風は涼しい飛沫(しぶき)を運び参拝する者を包みます。この動態を、虚子は「美(うる)はし」の一語で切ります。日本の神さまは、このように直接的な自然現象を人に与えている場合が多く、人々は、山や岩や海や樹や稲など、それぞれの土地の恵みを崇拝してきました。それにしても、滝そのものをご神体にしている事例は、ここ以外に知りません。ご存知の方がいたら、教えてください。『虚子五句集』(岩波文庫・1996)所収。(小笠原高志)


June 1362015

 入梅を告ぐオムレツの黄なる朝

                           山田弘子

の時期に雨が降らなければ水不足になるしあれこれ育たないし困るのだ、と分かってはいる。それでも〈世を隔て人を隔てゝ梅雨に入る〉(高野素十)、これからしばらくは雨続きですよ、と宣言されてなんとはなしに気分が沈むのが梅雨入りだろう。掲出句で入梅を告げているのは朝のテレビ、作者はちょうど朝食のオムレツの前に座ったところだ。雨模様の窓を見つつ、当分はこの雨が続くのかやれやれ、と思いテーブルのオムレツに目をやると、光を思わせる卵色とあっけらかんと赤いケチャップがいつにもまして鮮やかに見え、よし、という気分になる。そして、隔てるどころかその日もたくさんの人に明るい笑顔を見せて過ごしたにちがいない。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(今井肖子)




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