ヌエのような政党が、また出てきたな。邪魔である。(哲




2015ソスN6ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1662015

 時鳥きよきよつと嗤ふ誤植文字

                           山元志津香

鳥(ほととぎす)の鳴き声の聞きなしは、「東京特許許可局」「てっぺんかけたか」など。私には舌足らず気味の「ここ許可局」と聞こえるが、掲句の作者には「きょきょ」が強調されているようだ。自身が関わっている冊子があると誤植は重大事である。活字時代は植字工が拾う活字の間違いが原因で起きたが、今ではパソコンでの変換ミスがもっとも多い。どちらにしても校閲段階で見つけられれば事なきを得るが、誤植というのはなぜか刷り上がった完成物で見つかる。発見したときの気持ちのさがりように反比例するように、誤植部分はめきめきと浮き上がり、紙面を飛び出すかのような勢いで目に飛び込む。作家半藤一利は「浜の真砂と本の誤植は尽きない」と嘆いたというが、ある程度の確率で発生するものとあきらめてはいても、あざけて嘲笑する「嗤ふ」が、自己嫌悪の度合いを象徴する。本欄でもたびたび発生するが、インターネットという流動的媒体の利点でこそっと修正し、翌日には幾分涼しい顔でいられる。それでも次からはご指摘のたび、時鳥の鳴き声が頭に響いてくるに違いない。『木綿の女』(2015)所収。(土肥あき子)


June 1562015

 百姓の朝のたばこや蓮開く

                           上野 泰

の農村育ちだから、この情景はお馴染だ。蓮が開きはじめるのは今頃くらいからだから、初夏の朝である。田植えも終わって、早朝から植田を見回って一服つけているところだろう。世の中が動きだす前の平和で静かな時間。良い香りの紫煙が流れてゆく。子供心にも、この煙草は実に美味そうに思えた、いや、実際にも美味かったのだろう。こうした情景は当然、子供の好奇心にも火をつけた。遊び仲間とかたらって、何度か煙草を吸おうとチャレンジしようとしたが、本物の煙草が手に入らない、仕方がないので藁しべに火をつけて吸ってはみたものの、ただいがらっぽくて「朝のたばこ」どころてはなかった。たいていの人は映画の影響などで煙草に目覚めるようだけれど、私(たち)の場合には、フィクションではなくて現実に根ざしていたわけだ。最近は嫌煙の波が都会といわず農村にも押し寄せているけれど、健康第一のかわりに人間が失うものも大きいよ、などと思ったりしている。『花神コレクション・上裡泰』(1994)所収。(清水哲男)


June 1462015

 神にませばまこと美はし那智の滝

                           高浜虚子

は夏の季語です。しかし実際は、昭和8年4月、南紀に遊んだ時の作句です。参道の脇には句碑が建っています。一方、山口誓子は昭和43年、前書を那智として「鳥居立つ大白滝を敬へと」と詠みました。私も初めて那智に行ったとき、鳥居をくぐると本殿・社殿はなく、じかに大白滝を拝むことに驚きました。それまで神道にはほとんど関心がなかったのですが、「那智の滝が枯れる時は世界が終わる時」という言い伝えは聞き及んでいたので、たしかに、この滝が枯れたら那智川流域の植物も枯れてしまうと思いました。ここ、飛瀧神社は、那智の滝を中心にして成り立っている鎮守の森の生態系それ自体を聖域とみて、鳥居で俗界と区切り、滝の下り口には注連縄を渡して神さ まであることを示 しています。那智の滝は、植物にも動物にも人にも水を与え、元気にしてくれます。それが、神さまのはたらきなのでしょう。また、鳥居をくぐり抜けて滝をおがむ者は、133mの落差のなか、水が多様に変化しながら落ちていく様を見ます。滝壺からは轟音がこだまして、風は涼しい飛沫(しぶき)を運び参拝する者を包みます。この動態を、虚子は「美(うる)はし」の一語で切ります。日本の神さまは、このように直接的な自然現象を人に与えている場合が多く、人々は、山や岩や海や樹や稲など、それぞれの土地の恵みを崇拝してきました。それにしても、滝そのものをご神体にしている事例は、ここ以外に知りません。ご存知の方がいたら、教えてください。『虚子五句集』(岩波文庫・1996)所収。(小笠原高志)




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