夏至。梅雨の最中で実感は薄いが、北半球では一年中で一番昼が長い。(哲




2015N622句(前日までの二句を含む)

June 2262015

 同じ女がいろんな水着を着るチラシ

                           北大路翼

ざめである。チラシを見るのが男である場合には、べつに水着のあれこれを比較するわけじゃない。したがって、「なあんだい」ということになる。けれども、かつて広告などの小さなプロダクションで働いた身には、なんとも切ない読後感が残る。要するにモデルを何人も雇う資金的余裕がないので、同じ女性を使いまわすことになってしまう。これが一流のモデルであったら話は別なのだけれど、哀しいかな、声をかけられるモデルの質には限界がある。つまりは貧すれば鈍するとなる理屈で、チラシの製作段階から仕上がりのみじめさが読めてしまうのだから、どうしようもない。この句を読んで、そんな若き日の苦い感情を思い出した。この句の作者には、いわば全焦点レンズで押さえたスナップ写真のような作品が多い。それがしばしば奇妙な味つけとなる。『天使の涎』(2015)所収。(清水哲男)


June 2162015

 影を出ておどろきやすき蟻となる

                           寺山修司

影から日向に出て、おどろきやすい蟻となっている。光と熱の変化に、蟻は驚いているのかもしれない。しかし、蟻に、驚くという感性があるのだろうか。また、蟻の驚きを、作者は見たというのだろうか。中七下五が引っかかります。作者は寺山修司だから、これは写生のふりをした虚構であることは十分に考えられます。寺山は、現実と虚構を反転させることを得意としたからです。例えば、現実には生きている母の死亡広告を出したり、劇画「あしたのジョー」の作中で死んだ力石徹の葬式を現実に取り仕切ったりして、現実と虚構の境界を無化する企てを試み続けました。もし、掲句の「蟻」を「人」に入れ替えたらどうでしょう。「影を出ておどろきやすき人となる」。 家を出て 、町に出て、驚きやすい人になる。これなら、『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へ出よう』の作者の句として筋は通ります。『花粉航海』(1975)所収。(小笠原高志)


June 2062015

 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる

                           中村草田男

日、自宅で飼っているというカタツムリが夜、人参を食べている映像を見た。おろし金のようなたくさんの歯を持っている蝸牛だが、かなり大きな良い音を立てていた、真夜中にどこからともなく聞こえて来たらちょっと怖い。よく見かける身近な蝸牛だが、美しい螺旋形の殻と流動的な柔らかい体を持ち、雌雄同体の謎めいた生き物だ。掲出句の、蝸牛、は、ででむし、と読んだ。殻に全身を閉じ込めて蓋をしてしまうこともあるというのでそんな姿で梅雨晴のある日、葉陰かどこかの片隅でじっとしていたのだろう。日差しが明るければ明るいほど、小さな貝殻となって動かない蝸牛の持つ闇がその螺旋に沿って果てしなく深くなっていくようでこれもちょっと怖くなる。『草田男季寄せ 夏』(1985・萬緑発行所)所載。(今井肖子)




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