沖縄戦・慰霊の日。以後沖縄に犠牲を強いつづけてきた責任は重い。(哲




2015ソスN6ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2362015

 夏至の日を機械の手入れして終わる

                           恒藤滋生

日は夏至。太陽が夏至点を通過し、北半球では一年で昼がもっとも長く、夜がもっとも短くなる。冬至と比べると、昼間の時間差は4時間以上にもなる。太陽を生活の中心とした生活からずいぶんと離れてしまった現代でも、同じ午後5時でもまだこんなに明るいというように、時間を基本としつつ日の長さを実感する。掲句は正確が取り柄の機械と、一年のなかで伸び縮みする太陽の動きとの取り合わせがユニーク。しかも、終日機械の手入れに関わっていたことで、人間はもう太陽とともに生きる生活には戻れないことも示唆しているようにも思われる。そこには、自然が遠く離れてしまったようなさみしさや切なさも漂うのだ。『水分』(2014)所収。(土肥あき子)


June 2262015

 同じ女がいろんな水着を着るチラシ

                           北大路翼

ざめである。チラシを見るのが男である場合には、べつに水着のあれこれを比較するわけじゃない。したがって、「なあんだい」ということになる。けれども、かつて広告などの小さなプロダクションで働いた身には、なんとも切ない読後感が残る。要するにモデルを何人も雇う資金的余裕がないので、同じ女性を使いまわすことになってしまう。これが一流のモデルであったら話は別なのだけれど、哀しいかな、声をかけられるモデルの質には限界がある。つまりは貧すれば鈍するとなる理屈で、チラシの製作段階から仕上がりのみじめさが読めてしまうのだから、どうしようもない。この句を読んで、そんな若き日の苦い感情を思い出した。この句の作者には、いわば全焦点レンズで押さえたスナップ写真のような作品が多い。それがしばしば奇妙な味つけとなる。『天使の涎』(2015)所収。(清水哲男)


June 2162015

 影を出ておどろきやすき蟻となる

                           寺山修司

影から日向に出て、おどろきやすい蟻となっている。光と熱の変化に、蟻は驚いているのかもしれない。しかし、蟻に、驚くという感性があるのだろうか。また、蟻の驚きを、作者は見たというのだろうか。中七下五が引っかかります。作者は寺山修司だから、これは写生のふりをした虚構であることは十分に考えられます。寺山は、現実と虚構を反転させることを得意としたからです。例えば、現実には生きている母の死亡広告を出したり、劇画「あしたのジョー」の作中で死んだ力石徹の葬式を現実に取り仕切ったりして、現実と虚構の境界を無化する企てを試み続けました。もし、掲句の「蟻」を「人」に入れ替えたらどうでしょう。「影を出ておどろきやすき人となる」。 家を出て 、町に出て、驚きやすい人になる。これなら、『家出のすすめ』『書を捨てよ、町へ出よう』の作者の句として筋は通ります。『花粉航海』(1975)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます