この暑さのあいだ、不思議なことに食欲は落ちなかった。(哲




2015ソスN8ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2482015

 なりすぎの胡瓜を煮るや煮詰めたる

                           小澤 實

瓜を煮るという発想は、あまり一般的ではないだろう。したがって、この句も事実を述べたものではないと思う。煮詰まったのは、アタマの中の鍋でである。情景を想像すると、なんとも暑苦しく鬱陶しい。ここがこの句の眼目だろう。胡瓜はナマで食べるもの。私にもこの固定観念があるけれど、いま、思い出してはっとしたことがある。正確には「煮る」という感じではないが、私が子供だったころに、毎日のように胡瓜の味噌汁を食べていたことだ。食料難で母も味噌汁の具に困ったすえの工夫だったのだろう。もう半世紀以上も前の話だが、子供にもこれがなかなか美味だった。大人になってから、友人にこの話をすると、みなびっくりすると同時に「ウソだろう」と本気にしてくれなかった。それほどに胡瓜のナマ神話は強力なのだ。どなたか、胡瓜の味噌汁を食べたことがある方はいらっしゃらないでしょうか。「俳句」(2015年9月号)所載。(清水哲男)


August 2382015

 空蟬のかなたこなたも古来かな

                           永田耕衣

語辞典によると、「空蝉」は「ウツシオミ=現臣」が転じた言葉です。よって、第一義はこの世の人という意味です。また、「空蝉の」は「世」にかかる枕詞で、「万葉集482」に「空蝉の世の事なればよそに見し山をや今はよすかと思はむ」があります。奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったけれど、平安時代以後は、蟬の脱け殻の意と解したので、はかないという意味になったといいます。以上、大野晋氏の解説によりました。これをふまえて掲句を読むと、二通りの読み方ができ そうです。一つ目は、「空蝉の」を枕詞として読みます。すると、枕詞の意味は考えないで読むことが常套なので、中七下五だけの意味になります。二つ目は、「空蝉」を蟬の脱け殻として即物的に読みます。すると、蟬の脱け殻は、古来から遍在しているという意味になります。それが無常観だととることもできますが、いずれも句を読みとった手応えが残りません。ただし、有季定型に納まっていて、中七以下「カ行音」と「ナ」音の韻律が調べを出しているので、口になじみやすい句になっています。何度も口ずさんでいると軽やかな気持ちにもなります。作意がどこにあるのかは不明ですが、軽みは確かです。「空蝉」は、実体として軽く、「かなた」「こなた」「古来」は、実体のない抽象語として、空っ ぽの軽さがあるからでしょうか。そういう遊びなのかもしれないし、まったく的外れなのかもしれません。なお、句集では掲句の前に「空蝉を出して来るなり高めにぞ」があり、これも意味不明です。意味不明だけど面白い。「天才バカボン」みたいなものか。なお、ここまで書き終えて、句集「後記」を読みました。「私は思った。彫刻、絵画、文学でさえ、超秀作というものは、論理思考を優に超越して、真実<在って無き>魅力を窮極とするものだ。ソレはソノ魅力が<虚空的>であるが故である、というのが現在私の生涯的決断である。」『泥ん』(1992)所収。(小笠原高志)


August 2282015

 桔梗の蕾の中は砂嵐

                           冬野 虹

角形の鋭角を見せながらふっくらと閉じている桔梗の蕾。花弁が重なり合って文字通りつぼんでいる多くの他の花の蕾とは違い、桔梗の蕾の中には明らかに空間が存在する。咲けば消えてしまうその閉ざされた空間に、宇宙のような無限を感じるというのならありがちな発想かもしれないが、砂嵐、と言われるとふと立ち止まってしまう。砂嵐でまず頭に浮かんだのはなぜか本物の砂の嵐ではなく、アナログテレビから出ていたいわゆるスノーノイズと呼ばれるものだった。あの無機質でモノクロの世界に続いている単調な雑音にしても、本当の砂嵐の混沌にしても、ぽん、と花が咲いた瞬間に消え去り、そこには凛とした桔梗の姿が生まれるのだ。『冬の虹作品集成』第一巻『雪予報』(2015)所収。(今井肖子)




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