早くも秋の長雨シーズンか。あと二週間くらいぐずつくらしい。(哲




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August 2882015

 蕗を負ふ母娘の下山夜鷹鳴く

                           皆吉爽雨

鷹は別名蚊吸鳥といって夜行性で夕刻から活動して飛びながら蚊や蛾などの昆虫を捕食する。その鳴き声はキョッキヨッキョッと忙しく、一種凄みのある鳴き方である。蕗は山では沢や斜面、河川の中洲や川岸、林の際などで多く見られる。郊外でも河川の土手や用水路の周辺に見られ、水が豊富で風があまり強くない土地を好み繁殖する。蕗は山菜として独特の香りがある薹や葉柄、葉を食用とする。蕗の薹は蕾の状態で採取したものを、天ぷらや煮物・味噌汁・蕗味噌に調理して食べられる。一般的には花が咲いた状態で食べる事は避けられるが、細かく刻んで油味噌に絡める「蕗味噌」などには利用可能。山村の女性の労働はきついが辛い山の仕事も日常となれば慣れっことなり、蕗摘みの母と娘のお喋りは尽きない。山の夜は早くて恐い。ほうら夜鷹が忙しく鳴き出した。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(藤嶋 務)


August 2782015

 キリンでいるキリン閉園時間まで

                           久保田紺

リンや象を檻の前のベンチに座ってぼーっと見ているのが好きだ。檻の内部にいる象やキリンは餌の心配がないとはいえ狭い敷地に押し込められて飼い殺しの身ではある。もう出られないことはわかっていてもキリンはキリン、象は象、の姿で人間の目にさらされる。キリンらしいふるまいを求める人間には付き合いきれない「キリンでいるのは閉園時間までさ」ともぐもぐ口を動かしながら人間を見下ろすキリンの心の声を聞きとっているようだ。キリンを見る人間と見られるキリンの関係に批評が入っている。同時に少し横にずらせば、「医者でいるのは病院にいる時間だけさ」「先生でいるのは学校にいる間だけ」と私たちの日常の比喩になっているようにも思える。「尻尾までおんなじものでできている」「別嬪になれとのりたまかけまくる」日常につかりながらも日常から少し浮き上がって自分も含めた世界の在り方を見る、川柳の視線の置きどころが面白い。『大阪のかたち』(2015)所収。(三宅やよい)


August 2682015

 秋刀魚焼く夕べの路地となりにけり

                           宇野信夫

ともなれば、なんと言っても秋刀魚である。七輪を屋外に持ち出して、家ごとに秋刀魚をボーボー焼くなどという下町の路地の夕景は、遠いものがたりとなってしまった。だいいち秋刀魚は干物などで年中食卓にあがるし、台所のガスレンジで焼きあげられてしまう。佐藤春夫の「秋刀魚の歌」も遠くなりにけりである。とは言え、秋になって店頭にぴんぴんならんで光る新秋刀魚は格別である。「今年は秋刀魚が豊漁」とか「不漁で高い」とか、毎年秋口のニュースとして報道される。何十年か前、秋刀魚が極端に不漁で、塩竈の友人を訪ねたおりに、気仙沼港まで脚をのばした。本場の秋刀魚も、がっかりするほどしょぼかった。しょぼい秋刀魚にやっとたどり着いて食した、という苦い思い出が忘れられない。まさしく「さんま苦いか塩っぱいか」であった。かつての路地は住人たちの生活の場として機能していた。今や生活も人も文化も、みな屋内に隠蔽されて、あの時の秋刀魚と同様に、しょぼいものになりさがってしまった。信夫には「噺家の扇づかひも薄暑かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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