九月になりました。秋は短いので、大切につきあいましょう。(哲




2015ソスN9ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0192015

 厄日来て糊効きすぎし釦穴

                           能村研三

日は立春から数えて210日目。この時期は台風の襲来などで農作物に被害を受けることが多いため、厄日として注意をうながした。先人の経験によって、後世に自然災害のおそろしさを呼びかけ、またある程度のあきらめも許容しなければならないものという思いが見られる。掲句はきちんと糊の効いたシャツに腕を通す心地良さから一転し、糊でつぶれてしまった釦穴に釦を押し込もうとして募るイライラにふと、「いいことばかりは続かない」などという言葉も浮かぶ。「厄」の文字は、は厂(がけ)の下に人が屈んだかたちを表す。見れば見るほど、おおごとが起こりそうな、胸騒ぎを感じさせる文字である。〈馬通す緩ききざはし秋気満つ〉〈胡桃には鬼と姫の名手に包む〉『催花の雷』(2015)初収。(土肥あき子)


August 3182015

 コスモスのあたりに飛べばホームラン

                           浜崎壬午

近はシンプルで作為のない句にあこがれる。掲句もその一つだが、人間傘寿も近くなってくると、少々の技巧をめぐらせた句などには、何の感懐も覚えなくなってくるようだ。ただ「小生意気」に写るだけで、そのこ生意気さがわずらわしいだけだ。どうせ技巧を仕掛けるのなら、あっと驚くようなものであってほしい。しかしそんな句は、余程の天才でないと無理だろう。考えてみれば、天才には作為なんぞはなさそうである。結局人間は、作為なしでスタートして、いろいろとあがいた末に、出発点に戻るようにできているのかもしれない。明日から九月。草野球には良いシーズンがやってくる。エンジョイ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


August 3082015

 遠浅や月にちらばる涼舟

                           村上鬼城

浅の海が、一枚の扇のように広がっています。その中心には月が光り、幾艘かの納涼舟がちらばっています。納涼の舟遊びの客たちは、お月見を先取りしているのでしょうか。それとも、花火とは違った夏の夜空を楽しんでいるのでしょうか。おだやかな波に揺られ舟べりに当たる波音を聞きながら、涼風を受けています。しかし、そんな風情を想像しながら眺める作者の視点は、海岸から見た情景です。満月なら、遠浅の海は凪のさざ波に月光が広がっていて、月の光の波の上に幾艘かの納涼舟がちらばっているだけです。天空の月と、海面上の月光に点在する涼舟。一枚の扇の絵のようです。なお、季語は「涼舟(すずみぶね) 」で夏ですが、「月」に秋を予感します。『定本鬼城句集』(1940)所収。(小笠原高志)




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