ケチのつきっぱなし。いっそ、五輪も返上しちゃったら。(哲




2015ソスN9ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0292015

 旅人のいかに寂しき稲光り

                           瀧口修造

雷」や「いかづち」という言葉には激しい音がこめられていて、季語としては夏である。ところが、雷が発する「稲光り」は秋の季語であり、音よりも視覚に訴えている。遠くの雷だと音よりも光のほうが強く感じられる。掲出句には「拾遺ブリュッセル一九五八.九」の添書がある。修造は1958年にヨーロッパを巡る長旅をしている。この「旅人」は修造自身であろう。近くて激しい雷鳴ではなく、旅先の異国でふと視界にとびこんできた「稲光り」だから、旅人にはいっそう寂しく感じられるのだろう。この句を引用して、加納光於と修造の詩画集『〈稲妻捕り〉Element』について触れている馬場駿吉は、次のように説明している。「九月初旬のある日の夕刻、ブリュッセルを襲った雷鳴と稲光りに触発されて書きとめた一句」(「方寸のポテンシャル9ーー瀧口修造の俳句的表現」)。馬場氏は修造を訪ねると、応接間兼書斎で読みさしの『去来抄』が机上に置かれているのに、何度か気づいたという。世界の現代作家の貴重な作品や、手作りの珍品などが足の踏み場もなく置かれた、あれは凄い応接間兼書斎でした。稲光りの句では瀧井孝作に「稲光ねざめがちなる老の夢」がある。「洪水」16号(2015)所載。(八木忠栄)


September 0192015

 厄日来て糊効きすぎし釦穴

                           能村研三

日は立春から数えて210日目。この時期は台風の襲来などで農作物に被害を受けることが多いため、厄日として注意をうながした。先人の経験によって、後世に自然災害のおそろしさを呼びかけ、またある程度のあきらめも許容しなければならないものという思いが見られる。掲句はきちんと糊の効いたシャツに腕を通す心地良さから一転し、糊でつぶれてしまった釦穴に釦を押し込もうとして募るイライラにふと、「いいことばかりは続かない」などという言葉も浮かぶ。「厄」の文字は、は厂(がけ)の下に人が屈んだかたちを表す。見れば見るほど、おおごとが起こりそうな、胸騒ぎを感じさせる文字である。〈馬通す緩ききざはし秋気満つ〉〈胡桃には鬼と姫の名手に包む〉『催花の雷』(2015)初収。(土肥あき子)


August 3182015

 コスモスのあたりに飛べばホームラン

                           浜崎壬午

近はシンプルで作為のない句にあこがれる。掲句もその一つだが、人間傘寿も近くなってくると、少々の技巧をめぐらせた句などには、何の感懐も覚えなくなってくるようだ。ただ「小生意気」に写るだけで、そのこ生意気さがわずらわしいだけだ。どうせ技巧を仕掛けるのなら、あっと驚くようなものであってほしい。しかしそんな句は、余程の天才でないと無理だろう。考えてみれば、天才には作為なんぞはなさそうである。結局人間は、作為なしでスタートして、いろいろとあがいた末に、出発点に戻るようにできているのかもしれない。明日から九月。草野球には良いシーズンがやってくる。エンジョイ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)




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