雨台風とはいえ、いやはやよく降りますねえ。(哲




2015ソスN9ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0992015

 あたらしき電信ばしらならぶ秋

                           松本邦吉

上から電信柱は年々減ってきている。とくに市街地では電線は地中に移設されつつあり、この点、地上はちょっと淋しくなってきた。電線を電信柱で走らせない、そんな文化は私にはあまり望ましいとは思えない。そんな思いでいるから「あたらしき電信ばしら」はうれしい。子どものころから、田舎でも道路沿いにずらりと立っていた丸木を削っただけの、コールタールが塗られた電信柱はお馴染みだった(およそ30メートル間隔なんだそうだ)。その下あたりで、われらガキどもはかくれんぼや陣取りなどをしてよく遊んだ。この電線と電信柱は、どこからきてどこまで続いているのだろうかと考えると、いっとき気が遠くなりそうになった。電信柱に器用にのぼる電気工夫には、憧憬さえ覚えたものだ。この句の「電信ばしら」は木なのか鉄材なのかわからないが、何かしら幸せを運んでゆくにちがいない。電信柱が初めて東京〜横浜間に設置されたのは1869年だという。秋は空気が澄みきっているから、「あたらしき電信ばしら」がどこまでもずっと見わたせる、そんな光景。邦吉の『しずかな人 春の海』(2015)には、詩と一緒に春〜冬・新年の句が何句も収められている。他に「秋の空ながめてをれば無きごとし」など。(八木忠栄)


September 0892015

 波音の平たくなりぬ秋の海

                           和田順子

く澄む空と呼応するように色が深まった秋の海。猛々しい太陽光にさらされ、にぎやかな人間に付き合った季節が過ぎ、海は海としての日常を取り戻す。沖で生まれた波が、渚に触れるときにたてる音は、そのひとつひとつが安らかな海の呼吸のように聞こえてくる。海から続く地に立つ爪先にも、その息吹は静かに、しかし力強く響く。波音が平たいとは、おだやかな音としての感覚だけではなく、こちらへと伸びてくるような形状もまた思わせる。秋の浜に立つ者は、胸の奥に届いた海の分身をこぼれないように持ち帰る。『流砂』(2015)所収。(土肥あき子)


September 0792015

 水を出しものしづまりぬ赤のまま

                           矢島渚男

の夏の日本列島も激しい雨に襲われた。山口県の私の故郷にも大量の雨が降り、思いがけぬ故郷の光景をテレビで眺めることになったのだった。ただテレビの弱点は、すさまじい洪水の間の様子を映し出しはするものの、おさまってしまえば何も報じてくれないところだ。句にそくしていえば「しずまりぬ」様子をこそ見たいのに、そういうところはニュース価値がないので、切り捨てられてしまう。そんな経験をしたせいで、この秋は掲句がとりわけて身にしみる。「水を出し」の主体は、私たちの生きている自然環境そのものだろう。平素はたいした変化も起こさないが、あるときは災害につながる洪水をもたらし、またあるときは生命を危機に追い込むほどの気温の乱高下を引き起こしたりする。だがそれも一時的な現象であって、ひとたび起きた天変地異もしずまってしまえば、また何事もなかったような環境に落ち着く。その何事もなかった様子の象徴が、句では「赤のまま」として提出されている。どこにでも生えている平凡な植物だけれど、その平凡さが実にありがたい存在として、風に吹かれているのである。『延年』所収。(清水哲男)




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