寒くなったり、暑くなったり…。こたえるなあ。(哲




2015蟷エ9譛16譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

September 1692015

 秋虫の声に灯ともすおしゃれ町

                           伊藤信吉

虫にもいろいろあるけれど、この場合はコオロギなのかマツムシなのかカネタタキを指しているのか、それははっきりしない。限定する必要はないし、いや,それら何種類もの虫がきっといっせいに鳴いているのだろう。おそらくそうなのだ。秋は灯ともし頃ともなれば、さまざまな虫の声であちこちの闇がにぎやかにふくらむ。おしゃれな町が、一段とおしゃれに感じられるということ。添書に「東京原宿、その通りにわが好むヒレカツの店あり」とある。1977年の作だから、原宿がいわゆる若者の町になって、おしゃれになってきた時代が舞台である。信吉は当時77歳。老年にして原宿へお気に入りのヒレカツを食べに行っていたのだから、町のみならず信吉もおしゃれではないか。老いてなお茶目っ気を失わなかった詩人の句として頷ける。夕刻、虫の声に押されるようにして、お気に入りのトンカツ屋さんの暖簾をうれしそうにくぐる様子が見えてくるようだ。他に「九月はやさびさびとして木枯しや」がある。『たそがれのうた』(2004)所収。(八木忠栄)


September 1592015

 ブロンズの少女が弾く木の実かな

                           山本 菫

ず、誰もが木蔭に置かれたブロンズ像を想像する。容赦ない夏の日差しから葉を茂らせ、ブロンズ像の少女を守ってきた大きな木。季節はめぐり、思いを告げるように梢はポツリポツリと木の実をこぼす。固いブロンズにぶつかっては転がっていく木の実が、冷たく思いをはねつけているようにも見えるだろうか。それとも、あどけない少女がどれほど手を差し出して受け止めたいと、ブロンズの身を嘆いていると見るだろうか。たったひとコマの描写のなかに、静があり、動がある。物語が凝縮された作品を前に思いを巡らせ、結末をひもとく幸福な時間もまた、俳句の楽しみのひとつである。〈向日葵を切つて真昼を手中にす〉〈遠雷や柩にこの世覗く窓〉『花果』(2015)所収。(土肥あき子)


September 1492015

 山頂の櫨の紅葉を火のはじめ

                           矢島渚男

の間は灼熱の太陽に焼かれ、生気を失ったような山肌も、秋風とともに瑞々しさを取り戻して来る。とりわけて風の道となる頂上付近では、いちはやく秋の植物たちの活動が活発化する。櫨(はぜ)の紅葉も九月には見られる。私の田舎でも、そろそろ色づきはじめる頃で、子供のころには風流心のかけらもなかった私にも、櫨の紅葉は燃えるようで目に沁みるかと思われた。その紅葉を、作者は「火のはじめ」と決然と言いきっている。「火のはじめ」とは、全山紅葉のさきがけとも読めるし、他方ではやがて長くて寒い季節に入る山国の、冬用意のための「火」のはじめだとも読める。むろん、作者はその両者を意識の裡に置いているのだ。櫨の紅葉は燃えるような色彩で、誰が見ても美しいと思うはずだが、その様子を一歩進めて、山国の生活のなかに生かそうとした鋭い目配りには唸らされてしまう。と言おうか、紅葉した櫨を見て、作者は観念的に何かをこねくりまわそうなどとは露思わず、まことに気持ちがよいほどの率直さで、心情を吐露してみせている。『采微』所収。(清水哲男)




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