シルバー・ウイークとは名付けたり。この「積極的商業主義」。(哲




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September 2092015

 しんじつの草の根沈み蛇は穴へ

                           金子兜太

の彼岸の頃に蛇は穴を出る。秋の彼岸の頃に蛇は穴に入る。季語の上ではこのような習わしになっていますが、蛇が冬眠の準備を始めるのはもう少し先のことです。掲句は、『詩経國風』(1985)所収。「あとがき」によると、『詩経』は、孔子によって編まれた極東最古の詩集で、その中で「風」に分類された詩編は、恋を歌い、農事を歌い、暮らしの苦しさを訴え、為政者への反省をうながす歌謡です。ところで、小林一茶は41歳のとき、一年がかりで孔子の『詩経國風』と睨めっこをしながら俳句を作り俳諧 修行をしました。当代随一の一茶信奉者である金子兜太は、一茶の句を理解するためには原典を読まないわけにはいかないと考え、「読むほどにミイラ取りがミイラになってしまったのである。(略)古代中国の歌のことばをしゃぶりながら、私は歌の背後の現実と人々の哀歓愛憎にまで感応してゆき、俳句にことばを移しつつ同時にその感応を書き取ろうとした」とあります。句集は「麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人」から始まり、所々に『詩経』の言葉が織り交ざる句が連なりますが、掲句は句集の終わりから二番目の位置です。この句は、孔子と一茶へのオマージュのようでもあり、あとがきでは自身を「盲蛇」に喩えているので『詩経』に対峙した自画像のようにも読みとれます。「しんじつ」とは、真の実 です。それは、言の葉から花が咲き、結実することです。そのためには、草の根を沈めて、盲蛇のような自分は『詩経』の穴の中に沈んで、沈潜して、ようやく真の実りを得られるのかもしれません。そんな寓意を読みとりました。(小笠原高志)


September 1992015

 頬ぺたに當てなどすなり赤い柿

                           小林一茶

規忌日ということで歳時記を見ていたら、子規の好物であった柿の項に掲出句があった。赤く熟した柿を手にとって頬に当てる、という仕草は一茶と似合っているようないないような、と思ったら前書きに「夢にさと女を見て」とある。さとは一茶と最初の妻との間に生まれた長女だが生後四百日で亡くなっている。夢の中でさとがその頬ぺたに赤い柿を当てたりしている、と読むのもかわいらしいが、この、頬ぺた、は作者自身の、頬の辺り、という気がする。たった一歳で別れた我が娘、思い出すのはいつもただ泣きただ笑うその顔の特に丸くて赤い頬であり、夢に出てきた我が娘の頬の赤が目覚めてからも眼裏にはっきり浮かんでいたのだ。ちょうど熟した柿が生っていたのか置かれていたのか、赤い柿を手に取って思わずそっと頬に当ててみるが、柿はその色とは裏腹にひんやりと固かったに違いない。それでも愛おしむ様にしばらく柿を手に夢の余韻の中にいた作者だったのではないだろうか。『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)所載。(今井肖子)


September 1892015

 待つことをやめし時より草雲雀

                           石井薔子

雲雀と言っても鳥ではなく昆虫である。コオロギ科に属し、体長六、七ミリと小さな虫。朝の涼しいときから鳴くので地方のよっては「朝鈴」というところもある。夏の盛りもようやく越えて心なしか夕風に涼しさも感じられる頃、作者は人を待っている。どうしても会いたい人、来てくれるのかやっぱり来ないのか気を揉んで待っている。人には待つことが沢山ある。合格通知を待つ、クラス会での再会を待つ、手術の結果を待つ、日出を待つ、始発列車の到着を待つ、定年を待つ、Xデーの到来を待つ、そして貴方は今何を待っていますか。辺りが昏くなり草雲雀が鳴き出した。もう来ないんだ、待つことを止める時が来た。恋はいつでも片想い。<指先で貌をほぐすや寒鴉><介護士の深き喫煙冬の鳥><霜の夜は胎児が母をあたためむ>。『夏の谿』(2012)所収。(藤嶋 務)




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