体調がいまいちで、寝ながらラジオばかり聞いている。(哲




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September 2392015

 赤蜻蛉米利堅機飛ぶ空ながら

                           阿部次郎

市部では赤蜻蛉どころか、普通の蜻蛉さえも、めったに目にすることができなくなった。今年の秋もおそらくそうだろう。秋の空は晴れていても、そのだだっ広さがどこかしら淋しいものにも感じられる。米利堅(メリケン)、つまりアメリカの飛行機が上空を飛んでいる。にもかかわらず、負けじと赤蜻蛉が(当時は)空いっぱい果敢に飛びかっていたのだろう。米利堅機はいつものようにわがもの顔で、日本の秋空を飛んでいたにちがいない。赤蜻蛉がめっきり少なくなってしまった日本の上空を、このごろはオスプレイとかいう、物騒な米利堅機がわがもの顔で音高く飛んでいるではないかーー。いや、米利堅機は日本と言わず中東と言わず、世界中の上空が春夏秋冬好きらしい。赤蜻蛉よ心あらば、どこかからわいて出てきてくれ! そんなことを、とりわけこのごろは願わずにいられない。掲出句を詠んだ次郎は、まさか音高きオスプレイなるものを想像だにしていなかっただろう。次郎には他に「濡土に木影沁むなり秋日和」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2292015

 秋の蝿日向日向へ身をずらす

                           大崎紀夫

になって命終が近づきつつある蝿に思う哀れが季題となっているのは秋の蝿のほかにも秋の蚊や秋の蝶があるが、秋の蝿にはひとしおの物悲しさが感じられる。以前、蝿は食べ物に止まり、病原菌を媒介する厄介な虫の代表であったが、住環境の向上により近年では激減した。家庭には必ずといってあった蝿叩きや、蝿帳もいつのまにか姿を消している。普段見かけないうえに、日差しも頼りない秋になってから見つける蝿には、憎い存在というより、発見の喜びすらあるような気がする。掲句でも日向から日向へと弱々しく移動する蝿に感じているのは、おそらく自分の日向まで明け渡すこともやぶさかではない同情の視線である。ぬくもりを探しながら生きていくことの愛おしさが、「ずらす」といういじらしい移動表現となったのだろう。『虻の昼』(2015)所収。(土肥あき子)


September 2192015

 鳥渡とは鳥渡る間や昼の酒

                           矢島渚男

句には「鳥渡」に「ちよつと」と振り仮名がつけてある。「鳥渡」も、いまや難読漢字なのだろう。私の世代くらいまでなら、むしろこの字を読める人のほうが多いかもしれない。というのも「鳥渡」は昔の時代小説や講談本に頻出していたからである。「鳥渡、顔貸してくんねえか」、「鳥渡、そこまで」等々。「鳥」(ちょう)と「渡」(と)で「ちょっと」に当てた文字だ。同じく「一寸」も当て字だけれど、「鳥渡」はニュアンス的には古い口語の「ちょいと」に近い感じがする。それはともかく、この当て字を逆手にとって、作者はその意味を「鳥渡る間のこと」として、「ちょっと」をずいぶん長い時間に解釈してみせた。むろん冗談みたいなものなのだが、なかなかに風流で面白い。何かの会合の流れだろうか。まだ日は高いのだが、何人かで「ちょっと一杯」ということになった。酒好きの方ならおわかりだろうが、この「ちょっと」が実に曲者なのだ。最初はほんの少しだけと思い決めて飲み始めるのだけれど、そのうちに「ちょっと」がちつとも「ちょっと」ではなくなってくる。そんなときだったろう。作者は誰に言うとなく、「いや、『鳥渡』は鳥渡る間のことなんだから、これでいいのさ」と当意即妙な解釈を披露してみせたのである。長い昼酒の言い訳にはぴったりだ。これは使える(笑)。『百済野』所収。(清水哲男)




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