場所とは無関係のように相撲を取っている横綱鶴竜の孤独な姿。(哲




2015ソスN9ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2492015

 手の音もまじり無月の鼓うつ

                           大石雄鬼

を打つのは手ではあるが、手の音も混じるとは、鼓の縁を打つ響きなのだろうか。真っ暗な雲に月は見えないが故に雲に隠された煌々と輝く月の存在をかえって強く感じさせる。「いよーっ」と合いの手を入れながら打つ鼓は一つなのだろうか、無数に並んでいるのか。いずれにせよ「手の音」と即物的に表現したことで鼓を打つ手が生き物のようで少し不気味である。無月の「無」が後の叙述を実在しない光景のようにも感じさせて前半のリアルな描写と絶妙なバランスを保っている。余談だが、「鼓月」という銘菓が京都にある。鼓と月は相性がいいのだろか。お菓子の命名の由来は「打てば響く鼓に思いを寄せ、その名中天の月へも届け」という願いを込めて名付けられたそうだ。今年の月はどんな月だろう。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)


September 2392015

 赤蜻蛉米利堅機飛ぶ空ながら

                           阿部次郎

市部では赤蜻蛉どころか、普通の蜻蛉さえも、めったに目にすることができなくなった。今年の秋もおそらくそうだろう。秋の空は晴れていても、そのだだっ広さがどこかしら淋しいものにも感じられる。米利堅(メリケン)、つまりアメリカの飛行機が上空を飛んでいる。にもかかわらず、負けじと赤蜻蛉が(当時は)空いっぱい果敢に飛びかっていたのだろう。米利堅機はいつものようにわがもの顔で、日本の秋空を飛んでいたにちがいない。赤蜻蛉がめっきり少なくなってしまった日本の上空を、このごろはオスプレイとかいう、物騒な米利堅機がわがもの顔で音高く飛んでいるではないかーー。いや、米利堅機は日本と言わず中東と言わず、世界中の上空が春夏秋冬好きらしい。赤蜻蛉よ心あらば、どこかからわいて出てきてくれ! そんなことを、とりわけこのごろは願わずにいられない。掲出句を詠んだ次郎は、まさか音高きオスプレイなるものを想像だにしていなかっただろう。次郎には他に「濡土に木影沁むなり秋日和」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2292015

 秋の蝿日向日向へ身をずらす

                           大崎紀夫

になって命終が近づきつつある蝿に思う哀れが季題となっているのは秋の蝿のほかにも秋の蚊や秋の蝶があるが、秋の蝿にはひとしおの物悲しさが感じられる。以前、蝿は食べ物に止まり、病原菌を媒介する厄介な虫の代表であったが、住環境の向上により近年では激減した。家庭には必ずといってあった蝿叩きや、蝿帳もいつのまにか姿を消している。普段見かけないうえに、日差しも頼りない秋になってから見つける蝿には、憎い存在というより、発見の喜びすらあるような気がする。掲句でも日向から日向へと弱々しく移動する蝿に感じているのは、おそらく自分の日向まで明け渡すこともやぶさかではない同情の視線である。ぬくもりを探しながら生きていくことの愛おしさが、「ずらす」といういじらしい移動表現となったのだろう。『虻の昼』(2015)所収。(土肥あき子)




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