新アベノミックスは「産めよ増やせよ、働け働け」である。(哲




2015ソスN9ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2592015

 雁渡し壺に満たざる骨拾ふ

                           大井東一路

渡しは雁の渡ってくるころ吹く北風で青北風(あおぎた)とも言う。人は寒さを感じ着る物を次第に厚くしてゆく。そんな季節のある日、身内を無くし茫然としたまま黙々とその骨を拾っている。こんなにも小さな存在ではあるが、夢多く熱き思いを共に過ごした夜々を思い出す。あの笑顔や泣き顔の様は掛替えのない宝物となって胸に収まる。その顔も現世からは消え去った。夢多き人生を送って欲しかった。共に過ごした暮らしは小さく地道な日常だった。こうして拾う骨も壺には満たない。青く透明な空と海の狭間に何の摂理か雁が渡ってゆく。心が寒い。思い出は胸に骨は骨壺に。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2013年9月30日付)所載。(藤嶋 務)


September 2492015

 手の音もまじり無月の鼓うつ

                           大石雄鬼

を打つのは手ではあるが、手の音も混じるとは、鼓の縁を打つ響きなのだろうか。真っ暗な雲に月は見えないが故に雲に隠された煌々と輝く月の存在をかえって強く感じさせる。「いよーっ」と合いの手を入れながら打つ鼓は一つなのだろうか、無数に並んでいるのか。いずれにせよ「手の音」と即物的に表現したことで鼓を打つ手が生き物のようで少し不気味である。無月の「無」が後の叙述を実在しない光景のようにも感じさせて前半のリアルな描写と絶妙なバランスを保っている。余談だが、「鼓月」という銘菓が京都にある。鼓と月は相性がいいのだろか。お菓子の命名の由来は「打てば響く鼓に思いを寄せ、その名中天の月へも届け」という願いを込めて名付けられたそうだ。今年の月はどんな月だろう。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)


September 2392015

 赤蜻蛉米利堅機飛ぶ空ながら

                           阿部次郎

市部では赤蜻蛉どころか、普通の蜻蛉さえも、めったに目にすることができなくなった。今年の秋もおそらくそうだろう。秋の空は晴れていても、そのだだっ広さがどこかしら淋しいものにも感じられる。米利堅(メリケン)、つまりアメリカの飛行機が上空を飛んでいる。にもかかわらず、負けじと赤蜻蛉が(当時は)空いっぱい果敢に飛びかっていたのだろう。米利堅機はいつものようにわがもの顔で、日本の秋空を飛んでいたにちがいない。赤蜻蛉がめっきり少なくなってしまった日本の上空を、このごろはオスプレイとかいう、物騒な米利堅機がわがもの顔で音高く飛んでいるではないかーー。いや、米利堅機は日本と言わず中東と言わず、世界中の上空が春夏秋冬好きらしい。赤蜻蛉よ心あらば、どこかからわいて出てきてくれ! そんなことを、とりわけこのごろは願わずにいられない。掲出句を詠んだ次郎は、まさか音高きオスプレイなるものを想像だにしていなかっただろう。次郎には他に「濡土に木影沁むなり秋日和」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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