September 262015
秋蟬は風が育ててゐるらしく
大牧 広
今年東京はみんみんが多かったが、台風の影響もあってか蝉の季節はふっつりと終わった気がする。そんなこの連休に海辺の町まで少し遠出した。一時間半ほど電車に揺られて駅に降り立つと、爽やかな風にのって蝉の声が聞こえてきた。残暑の町中で聞く残る蝉は、暑苦しくいつまで鳴いているのかと思うものだが、秋の海風に運ばれてくる蝉声はからりと心地よく不思議と懐かしささえ覚えたのだった。仲間より少し遅れて目覚めた秋の蝉は、そうか風が育てているのか、と深く納得させられ、ゐるらしく、にある清々しい風の余韻に浸っている。『俳句』(2015年10月号)所載。(今井肖子)
September 252015
雁渡し壺に満たざる骨拾ふ
大井東一路
雁渡しは雁の渡ってくるころ吹く北風で青北風(あおぎた)とも言う。人は寒さを感じ着る物を次第に厚くしてゆく。そんな季節のある日、身内を無くし茫然としたまま黙々とその骨を拾っている。こんなにも小さな存在ではあるが、夢多く熱き思いを共に過ごした夜々を思い出す。あの笑顔や泣き顔の様は掛替えのない宝物となって胸に収まる。その顔も現世からは消え去った。夢多き人生を送って欲しかった。共に過ごした暮らしは小さく地道な日常だった。こうして拾う骨も壺には満たない。青く透明な空と海の狭間に何の摂理か雁が渡ってゆく。心が寒い。思い出は胸に骨は骨壺に。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2013年9月30日付)所載。(藤嶋 務)
September 242015
手の音もまじり無月の鼓うつ
大石雄鬼
鼓を打つのは手ではあるが、手の音も混じるとは、鼓の縁を打つ響きなのだろうか。真っ暗な雲に月は見えないが故に雲に隠された煌々と輝く月の存在をかえって強く感じさせる。「いよーっ」と合いの手を入れながら打つ鼓は一つなのだろうか、無数に並んでいるのか。いずれにせよ「手の音」と即物的に表現したことで鼓を打つ手が生き物のようで少し不気味である。無月の「無」が後の叙述を実在しない光景のようにも感じさせて前半のリアルな描写と絶妙なバランスを保っている。余談だが、「鼓月」という銘菓が京都にある。鼓と月は相性がいいのだろか。お菓子の命名の由来は「打てば響く鼓に思いを寄せ、その名中天の月へも届け」という願いを込めて名付けられたそうだ。今年の月はどんな月だろう。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)
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