天には十五夜の月、地には千秋楽の土俵。「秋」ですねえ。(哲




2015ソスN9ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2792015

 歳月の胸をこおろぎ蹴り尽す

                           永田耕衣

11句集『物質』(1974)所収です。「あとがき」に、書名の由来が記されています。「精神とて即物質に過ぎぬ(略)身心即物質(略)私という物質から不法にも跳ね出た瓦礫の数数、約六百句は、ここマル三年間の無茶苦茶行を証す赤裸裸に過ぎない。」一元論に徹しています。耕衣は、f-MRIの発明によって、脳を臓器として即物的にとらえることを 可能にした脳科学の見方を先見していたのかもしれません。さて、掲句の「歳月の胸」は、お初にお目にかかる比喩です。これを人体 から即物的にみると、胸には胸筋の起伏があり、肋骨には凹凸が、乳房にはふくらみがあります。今年六月に亡くなった文化人類学・言語学の西江雅之先生は、世界は濃淡と凹凸だけで出来ているとよく話されていましたが、「歳月の胸」も同様に、地表の凹凸のことのように思われます。そんな地表を「こおろぎ」が「蹴り尽す」。ここから、「蹴る」という動詞に論点を移します。蹴る直前の地表Pは、こおろぎにとって未来ですが、蹴った直後の地表Pは、こおろぎにとって過去です。では、こおろぎの現在はどこに在るのか。それは、こおろぎの身体=物質=動体です。ところで、俳句を作るうえでは「こおろぎ」という秋の季語を必要としますが、耕衣が、「存在の根源を追尋すべき事」と言っている俳句信条を ふまえると、さらに敷衍(ふえん)できるでしょう。物質としての動物(人間)は、つねに目の前の地表Pに未来として向き合い、それを現在化すること(蹴ること、即ち行動すること)によって地表Pを過去にしていきます。つまり、「歳月の胸」を「蹴り尽す」行動の連続は、現在から未来を「踏み」、その未来を「蹴って」過去を創ることです。「蹴り尽す」直前には未来を「踏みだす」実存があり、その時「胸」の内側に鼓動を感じとれるかもしれません。(小笠原高志)


September 2692015

 秋蟬は風が育ててゐるらしく

                           大牧 広

年東京はみんみんが多かったが、台風の影響もあってか蝉の季節はふっつりと終わった気がする。そんなこの連休に海辺の町まで少し遠出した。一時間半ほど電車に揺られて駅に降り立つと、爽やかな風にのって蝉の声が聞こえてきた。残暑の町中で聞く残る蝉は、暑苦しくいつまで鳴いているのかと思うものだが、秋の海風に運ばれてくる蝉声はからりと心地よく不思議と懐かしささえ覚えたのだった。仲間より少し遅れて目覚めた秋の蝉は、そうか風が育てているのか、と深く納得させられ、ゐるらしく、にある清々しい風の余韻に浸っている。『俳句』(2015年10月号)所載。(今井肖子)


September 2592015

 雁渡し壺に満たざる骨拾ふ

                           大井東一路

渡しは雁の渡ってくるころ吹く北風で青北風(あおぎた)とも言う。人は寒さを感じ着る物を次第に厚くしてゆく。そんな季節のある日、身内を無くし茫然としたまま黙々とその骨を拾っている。こんなにも小さな存在ではあるが、夢多く熱き思いを共に過ごした夜々を思い出す。あの笑顔や泣き顔の様は掛替えのない宝物となって胸に収まる。その顔も現世からは消え去った。夢多き人生を送って欲しかった。共に過ごした暮らしは小さく地道な日常だった。こうして拾う骨も壺には満たない。青く透明な空と海の狭間に何の摂理か雁が渡ってゆく。心が寒い。思い出は胸に骨は骨壺に。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2013年9月30日付)所載。(藤嶋 務)




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