「今日は全国的に洗濯日和だ」と、アナウンサーが言っている。(哲




2015ソスN9ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2992015

 この椅子にさっき迄居た穴惑い

                           西村亜紀子

き嫌いの差こそあれ、蛇ほど強い印象を与える生きものはいないだろう。穴惑いとは、春の彼岸に出、秋の彼岸に入るといわれる蛇が彼岸を過ぎてもまだうろうろと地上に姿を見せている様子。掲句は「さっき迄」というが、その姿はありありと作者の目に焼き付いている。と、まだこの辺にいるのではないかという恐怖が作者を動揺させているが、いないものは、いるものより怖い。椅子の上に刻印された蛇の輪郭はいつまでも煌煌と光りを発している。同著は船団所属同世代女性三人の合同句集。北村恭久子〈ちゃんちゃんこいつもどこかがほころびて〉、室展子〈システムのかすかな軋み星流る〉など三者三様の個性が光る。あ、今ようやく書名の理由に気がついた。『三光鳥』(2015)所収。(土肥あき子)


September 2892015

 雀らの友となりたる捨案山子

                           矢島渚男

作農家の子のくせに、案山子とはほとんど縁がなかった。我が家に限らず、私の田舎では、案山子を立てる家は少なかった。おそらくは案山子によって追い払われる純情な雀らなど、もはや存在しなかったからだろう。鳥たちには鳥たちの学習能力があって、最初は人間の形にだまされても、だんだんと動かない案山子が無害であることに気づき、平気で無視して飛び回るようになったのだ。だから人間の側にしても一工夫も二工夫も重ねる必要があり、鳴子を使ってけたたましい音を発することにより、ときどき驚かしては追い払ったりすることなどを試みていた。我が田舎では、この鳴子方式が主流だったように思う。それでも一種のおまじないのように立てられていた案山子がなかったわけではない。人間にしてみれば、どうせまじないなのだからと、案山子の衣裳も顔も素朴なもので、子供の目にも「やっつけ仕事」で作られたように思えた。例の「へのへのもへじ」顔の案山子である。したがって、収穫のシーズンが終わっても大切にしまわれることもなく、そのままうっちゃっておかれる「捨案山子」がほとんどだった。『越年』所収。(清水哲男)


September 2792015

 歳月の胸をこおろぎ蹴り尽す

                           永田耕衣

11句集『物質』(1974)所収です。「あとがき」に、書名の由来が記されています。「精神とて即物質に過ぎぬ(略)身心即物質(略)私という物質から不法にも跳ね出た瓦礫の数数、約六百句は、ここマル三年間の無茶苦茶行を証す赤裸裸に過ぎない。」一元論に徹しています。耕衣は、f-MRIの発明によって、脳を臓器として即物的にとらえることを 可能にした脳科学の見方を先見していたのかもしれません。さて、掲句の「歳月の胸」は、お初にお目にかかる比喩です。これを人体 から即物的にみると、胸には胸筋の起伏があり、肋骨には凹凸が、乳房にはふくらみがあります。今年六月に亡くなった文化人類学・言語学の西江雅之先生は、世界は濃淡と凹凸だけで出来ているとよく話されていましたが、「歳月の胸」も同様に、地表の凹凸のことのように思われます。そんな地表を「こおろぎ」が「蹴り尽す」。ここから、「蹴る」という動詞に論点を移します。蹴る直前の地表Pは、こおろぎにとって未来ですが、蹴った直後の地表Pは、こおろぎにとって過去です。では、こおろぎの現在はどこに在るのか。それは、こおろぎの身体=物質=動体です。ところで、俳句を作るうえでは「こおろぎ」という秋の季語を必要としますが、耕衣が、「存在の根源を追尋すべき事」と言っている俳句信条を ふまえると、さらに敷衍(ふえん)できるでしょう。物質としての動物(人間)は、つねに目の前の地表Pに未来として向き合い、それを現在化すること(蹴ること、即ち行動すること)によって地表Pを過去にしていきます。つまり、「歳月の胸」を「蹴り尽す」行動の連続は、現在から未来を「踏み」、その未来を「蹴って」過去を創ることです。「蹴り尽す」直前には未来を「踏みだす」実存があり、その時「胸」の内側に鼓動を感じとれるかもしれません。(小笠原高志)




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