玄関先で転倒してしたたか脇腹を打った。トシは取りたくないもんだ。(哲




2015ソスN10ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 05102015

 洪水のあとに色なき茄子かな

                           夏目漱石

年は自然災害が多い。それも考えも及ばない大きな被害をもたらしてくる。直接に被害を受けない地域で暮している私などは、災害のニュースに接するたびに、痛ましいとは思うけれども、他方で「ああ、またか」のうんざり感も持ってしまう。漱石の時代にどの程度の洪水があったのかは知らないが、私の農家体験から言うと、洪水の後の名状し難い落胆の心がよく表現されている。せっかく育てた茄子の哀れな姿。実はこの句はそうした情況スケッチではなくて、大病のあとの自分自身の比喩的な自画像だと言う。現代の文人であれば、このあたりをどう詠むだろうか。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)


October 04102015

 学生寮誰か秋刀魚を焼いている

                           ふじおかはつお

月22日、午後12時30分前。車を運転しながら、NHK第一放送を聞いていた時に、読まれた句です。お昼のニュースの後にのどかな音楽が始まって、各地の土地と暮らしの様子をアナウンサーが語る「昼の憩い」という10分の番組で、終わりには一句または一首が読まれます。もう、何十年も続いている番組なので、耳にしたことのある方は多いでしょう。農作業の畑の畦(あぜ)で、お弁当を食べながら聞くリスナーも少なくないようです。ラジオから掲句を聞いて、懐かしい気持ちが秋刀魚の匂いとともに届きました。この学生寮は、たぶん、1960年代くらい。まだ、旧制高校の寮歌がうたい継がれ、「デカンショ節」どおりの蛮カラな生活の中で、人生と哲学を語り合って教養を 熟成する場が学生寮でした 。高度経済成長が始まったとはいえ、日本はまだ貧しく、学生たちは、いつも腹を減らしていました。その時、寮のどこからか、煙とともに秋刀魚を焼く油の香ばしい匂いがたちこめてきます。寮生たちの嗅覚は犬猫なみですから、本を読んでいた者、洗濯していた者、将棋を指していた者、昼寝をしていた者それぞれが立ちあがり、ゾロゾロ匂いの元に向かいます。さて、寮の庭の隅で隠れるように七輪で焼かれていた秋刀魚一匹は、無事、焼き手の口にだけ納まったのか。それとも、箸を手にして七輪を取り囲む猛者たちに分け与えられたのか。50年前の秋、北大の恵迪(けいてき)寮や京大、吉田寮の実景でしょう。(小笠原高志)


October 03102015

 今何をせむと立ちしか小鳥くる

                           ふけとしこ

ビングのテーブルに座っていて、ちょっとした用事を思いついてキッチンへ向かった時、庭の木の実を啄んでいるきれいな色の小鳥に目が留まる。しばらく見ているがそのうち、ここに立っているのは小鳥を見るためじゃなかったはず、と気づくがさて何だったか。最初はそんな風に思ったのだがだんだん違う気がしてきた。例えば、何かしようとして立ち上がり、ちょっと他のことに気を取られているうちに、待てよそもそも何が目的だったのかやれやれ、としばし立ち止まって考えている作者。その時、小鳥の声が聞こえたかちらりと姿が見えたのか、秋が深まってきたことを感じながらふと和らいだ心地がしたのではないか。そんなやさしさのにじむ、くる、なのだろう。「ほたる通信 II」(2015年9月号)所載。(今井肖子)




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