現場を知らない社長どもが早々に記者会見するなどは傲慢だ。(哲




2015ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21102015

 母とわれがつながり毛糸まかれゆく

                           寺山修司

と向き合っての毛糸繰りである。両手にかけた毛糸を母が繰りとって玉にしてゆく。子どものころ、よく手伝わされたものだ。器用に母がまきとってどんどん大きくなる毛玉、その作業はおもしろいが、手持ち無沙汰であるこのお手伝いは必ずしもうれしいものではなかった。母と一本の毛糸で結ばれて、子は逃げることができない! 母を短歌や俳句に多く詠んだ修司らしい句である。何事につけてもまずわが子のことを考える母親と、自分のことをやりたい(遊びに忙しい)子どもの立場のちがい。しかし、一本の毛糸でつながっている母と子、それは意味深長であり、寺山文学には欠くことのできないテーマであったと言える。子の成長とともに、やがてその毛糸は修司の場合にかぎらず、無残なまでに変化してゆく運命にある。それが母と子のさだめ。掲出句は当初「アサヒグラフ」1985年10月10日増刊号に掲載された。他に「母が編む毛糸がはやし寄りがたき」がある。未刊句集『続・わが高校時代の犯罪』として、『寺山修司コレクション1』(1992)収められた。(八木忠栄)


October 20102015

 差し入れに行く新米の握り飯

                           中嶋陽子

いしい新米があふれる幸せな季節。精米の場合、「新米」と表示してよいのは、生産年の12月31日までに精米され、容器に入れられたか、包装された米(米穀安定供給確保支援機構HPより)。新米は白さが際立ち、やわらかく粘りがあり、香りも豊か。そして、炊きたてはもちろん、冷めてもおいしいのでおにぎりにするにもうってつけ。差し入れのおにぎりにはたくさんの愛情やエールが込められている。真っ白のおにぎりが手に手に行き渡る光景を想像するだけで力がみなぎる心地となる。ところが、最近のベネッセの調査によると小学生の4人に1人が「他人が握ったおにぎりに抵抗がある」という。行き過ぎた衛生観念や、他人との距離感など、たくさんの理由はあるだろうが、なんとさみしいことだろう。その家によって力加減が違うことや、いろんな中身があることを知る機会がないなんて…、と昭和のおばさんはささやかに憂うのであります。〈鈴虫の羽ととのへてから鳴きぬ〉〈バスに乗るチェロバイオリンクリスマス〉『一本道』(2015)所収。(土肥あき子)


October 19102015

 無造作に通草盛られる山の市

                           梶川比呂子

会に出た田舎の子にとって、驚くことは多かった。「山の市」とあるが、そんなに山奥の市のことではないだろう。どこかの観光地かもしれない。でなければ、通草(あけび)などお飾り程度にせよ、売っているはずがない。大阪の店だったか、中学生のころに、通草が売られているのをみかけたときには、心底おどろいたっけ。こんなものまで売り物になるのか。いま思えば、郷愁を誘われた人が買っていたのだろうが、味はお世辞にも美味とは言えない。第一、食べるのが面倒だ。飢えた吾ら悪童どもだって、仕方なく口にしていたくらいだったから……。食べることだけがたのしみだったのに、それでも通草は苦手だったのだ。最近は子供のころのことをよく思い出す。人生が一巡したからかなと思う。もう新しい物事にも、あまり関心が持てなくなってきたような気がする。かつては好奇心の魔を自認していたのに、このテイタラクとも思うが、これから何を吸収したところで、身に付くものはほんのちょっぴりだろう。この状態はもはや「精神の引きこもり症」とでも呼ぶべきか。六十余年ぶりに、通草でも食べてみようかな。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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