2015N1130句(前日までの二句を含む)

November 30112015

 戦争がはじまる野菊たちの前

                           矢島渚男

メリカのブッシュ政権がアフガニスタンに侵攻した際、このニュースを知って、すぐに詠んだ句だという。……という注釈をつけなければ、いつ詠まれた句かわからないほどに、戦争は世界のどこかで絶え間なく勃発している。このときに「野菊」とは、実際の野生の花であると同時に、戦争などいささかも必要とせぬ無辜の民の象徴でもあるだろう。そんな「野菊たち」の「前」で、いきなり「はじまる」のが戦争だ。かつての大戦中、空爆や機銃掃射のなかを、ただおろおろと逃げ惑った子供時代を思い出さされた。日常が戦争であるとは、なんと悲惨なことであったか。そんな思い出をもつ世代も、いまや後期高齢者の仲間入りをし、戦争を知らない人々が大半を占めようとしている。今年は戦後七十年。この間、世界的に見てこの国は奇跡的と言ってよいほどに、戦争に巻き込まれることなくありつづけた。しかしながら。最近ではキナ臭い動きも頭をもたげようとしている。ふたたび、「野菊たち」の「前」に、不穏な風が吹こうとしている。これが私の杞憂に終わればよいのだが、とにかく昨今の政治的動静からは目がはなせない。(清水哲男)


November 29112015

 古家のゆがみを直す小春かな

                           与謝蕪村

春は小六月とともに、陰暦十月の異名です。現在なら、十一月中旬から十二月上旬あたりの期間を意味しますが、近現代の例句をみると、小春日や小春凪といったおだやかな日和の情景として詠んだ句がほとんどです。その点蕪村の句は、小春を本来の意味で使っています。この時期、田畑の収穫を終えた農家は、ようやく傾いた家の建て直しに手が回ります。一家総出で、隣人を助っ人に、余裕があれば大工の棟梁も招くことでしょう。この作業は、無事に冬を越すためでもあり、晴れやかに新春を迎えるためでもあります。家の中を大掃除する前に、まずは普請を万全にしようという季節のいとなみです。そう思うと、「小春かな」で切れるのも納得できます。なお、小春の初 出を調べて みたら六世紀半ばに中国の年中行事を記した『荊楚(けいそ)歳時記』に「小春」(ショウシュン)の項がありました。鎌倉末期の『徒然草』155段には「十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ」があり、江戸初期の『毛吹草』に冬の季語として定着しています。芭蕉は「月の鏡小春にみるや目正月」(続山井)の一句だけを残していて、これも陰暦十月として使っています。『蕪村俳句集』(岩波文庫・1989)所収。(小笠原高志)


November 28112015

 小春日の人出を鴉高きより

                           上野章子

春には呼び合うように鳴きかわし、やがてつがいとなって繁殖期を迎え、子育てが終わると再び集団で森の中にねぐらを作って冬を越すという鴉だが、冬の鴉というと黒々と肩をいからせて木の枝に止まっている孤高なイメージがある。この句を引いた句集『桜草』(1991)の中にも〈鴉来てとまりなほさら枯木かな〉とある。まさに「枯木寒鴉図」といったところだが、そんな寒々とした鴉とは少し違った小春日の景だ。実際は作者が鴉を見上げているのだが、読み手は一読して鴉の視線になる。小春の日差しに誘われて青空の下を行きかう人間達を、見るともなく見ている鴉。その鳴き声がふと、アホ〜、と聞こえたりするのもこんな日かもしれない。(今井肖子)




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