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December 30122015

 行く年しかたないねていよう

                           渥美 清

さん、じゃなかった渥美清が亡くなって、来年は二十年目となる。早いものだ、と言わざるを得ない。世間恒例のあれこれの商戦や忘年会も、過剰なイルミネーション(当時はそれほどでもなかったか)も、ようやく鳴りをひそめてきた年末。あとは残った時間が否応なく勝手に刻まれるだけ。反省しようとジタバタしようと、年は過ぎ行くのみ。「しかたない」のである。だから「ねていよう」というのである。いいなあ。どこやら、寅さん映画に出てくる旅先、お馴染みの寅さんの姿が目に浮かぶ。上五・中七の字足らずの不安定感が、年も押し詰まった旅の空で、皮鞄を脇にして寝るともなく寝ている姿を彷彿させてくれる。いや、清自身も実際にそういう生き方をしていたのかもしれない。「話をしようにも話し相手すらいない旅の一夜である。(中略)実体験であろうが、寅さんの旅のワンシーンにも重なってくる」と石寒太は鑑賞している。その通りだ。四十五歳だった清が、一九七三年十二月の「話の特集句会」に投じた句である。「立小便する気も失せる冬木立」の一句がならんでいる。森英介『風天』(2008)所載。(八木忠栄)


December 29122015

 一日の終ひの寝息蜜柑剥く

                           富樫 均

息はもちろん作者のものではなく、家族の誰かのもの。おそらく、子どもの健やかな寝息を確認したあとの、夫婦におとずれた心休まる時間だろう。蜜柑の清冽な香りと、元気や活気を感じさせる色彩が、家族とともに今、幸せなひとこまを過ごしていることを実感する。今年もあと数日。一日のおしまいが、一年のおしまいとなる日も近い。おだやかな一年を過ごせたことに感謝しつつ、またひとつ蜜柑に爪を立て、幸せな時間を堪能する。『風に鹿』(2006)所収。(土肥あき子)


December 28122015

 老人はすぐ死ぬほっかり爆ぜる栗

                           坪内稔典

生観などというものは、それを考える者の年齢や体調によって変化する。夏くらいから調子をくずして、病院通いがつづいていた。ここに来て無罪放免とはいかないけれど、一応日常的には病院と縁が切れたのだけれど、最近は自分の死に方についてあれこれ考える機会が多くなってきた。そんななかで出会った一句だが、いまの私の死生観に近い心境が詠まれていると思った。ざっくばらんに言ってしまえば生きていることについて、「もうこの辺でいいや」という感覚が濃くなってきた。といって自暴自棄というのではなく、句にあるような一種なごやかな思いのうちに死んでいけそうという思いのなかで、人生上の納得が得られそうな気が得られそうだからだ。まこと人がおだやかに逝くとは、栗がほっかり爆ぜるように、やすらかな自爆を起こすからなのだろう。『ヤツとオレ』(2015)所収。(清水哲男)




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