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January 2412016

 雪の肌なめらか富士は女体なり

                           山口誓子

年、初詣に富士を拝みます。今年の正月は雪不足のため、富士の山容には黒い縦の筋が幾つか通っていました。その姿はどこか険があって厳しいものでしたが、先週の降雪によって、富士は白い美肌美人になりました。作者同様、私もそんな富士に女体を見ます。富士は万葉集に詠まれ、竹取物語に描かれて、上代から日本人に親しまれてきましたが、信仰の対象としての富士は上代をはるかに遡った時代に起源があると思われ、神話では「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」という美しい娘とされて います。作者はこれを踏まえ、この民族的な擬人化をごく自然な写生句のように仕立てています。ところで、たをやめぶりの富士に対してますらをぶりの富士はないかといえば、太宰治「富嶽百景」で、御坂峠の茶屋の二階から、自動車五台で年一度の旅行に連れて来られている遊女の一団を見ている太宰がそれを見ていられなくなり、「そうだ、、富士に頼もう、、おい、、こいつらをよろしく頼むぜ、、その時の富士はどてらを着た大親分のようにさえ見えた」という一節がありました。この大親分は、男気がありなおかつ苦界に生きる女のあわれに身を重ねられる、そんな義侠でしょう。女神にも、任侠にもなれる富士こそ景勝です。『山口誓子集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)


January 2312016

 木の葉とは落ちてもじつとしてをらず

                           大久保白村

時記の「木の葉」の項を見ると「木を離れて了ふと単に木の葉としての存在となる。それと同時に散り残つた乏しい木の葉も亦木の葉といふ感じが強くなる」(虚子編 新歳時記)とある。生い茂っている時には幹と枝と共に一樹をなしている葉は、散った瞬間に生物としては終わりを迎えるが木の葉としての存在感を得る、ということか。そう思うと、木の葉、という言葉には、落葉や枯葉には無い永遠性が感じられる。掲出句の作者は、かつて樹としてざわめいていた葉が木の葉となってもなお風に遊ぶさまを見つめている。本質を観ながらやさしい視線だ。他に〈老いてなほ花子と呼ばれ象の冬〉〈日向ぼこしてゐるうちに老けにけり〉など。『続・中道俳句』(2014)所収。(今井肖子)


January 2212016

 うたはねば冬のヒバリはさびしき鳥

                           筑紫磐井

らかに空高く唄う春の雲雀あり。オスの囀りである。美しい声、うららかな空、昇り詰めて一気に落ちて来る様など見飽きない楽しさがある。それに引替え唄っていない雲雀の何と淋しいことか。ましてや冬の雲雀となれば。いや唄っているのに気付かれぬ事が多い冬の雲雀でもある。その他筆者の自分史というか青春のアリバイとも言える叙述が諸々と治まっている。いや青春に対しての「青い冬」の叙述だったのかも知れぬが。<さういふものに私はなりたくない><恋人よ血が出ぬほどにかまいたち><昭和 あゝ 島倉千代子のうたふ恋>。『我が時代』(2014)所収。(藤嶋 務)




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