2016ソスN2ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1022016

 子も葱も容れて膨るる雪マント

                           高島 茂

どもを背負い、葱を買って、雪のなかを帰るお母さんのふくれたマント姿である。雪の降る寒い景色のはずだけれど、「子」「葱」「膨るる」で、むしろほのかにやさしい光景として感じられないだろうか。昔の雪国ではよく目にしたものである。近年のメディアによるうるさい大雪報道は、雪害を前面に強調するばかりで、ギスギスしていてかなわない。大雪を嘆く気持ちは理解できないではないが、現代人は雪に対しても暑さに対しても、かくも自分本位で傲慢になってしまったか――と嘆かわしい。加藤楸邨にこんな句がある、「粉雪ふるマントの子等のまはりかな」。こういう視点。新宿西口にある焼鳥屋「ぼるが」には、若いころよく通った。文学青年や物書きがよく集まっていた。当時、入口で焼鳥を焼いていた主人が高島茂。俳人であることはうすうす耳にしていたが、ただ「へえー」てなものであった。焼鳥は絶品だった。主人は今はもちろん代わったが、お店は健在である。私は近年足が遠のいてしまった。ネットを開くと、「昭和レトロな世界にタイムスリップしたかのよう」という書きこみがある。当時からそんな雰囲気が濃厚だった。茂には他に「飯どきは飯食ひにくる冬仏」がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


February 0922016

 形なきものにぶつかりしやぼん玉

                           市川 葉

に浮いたしゃぼん玉がぱちんと割れる。それは単に埃がぶつかったのか、重力によって上部が薄くなって割れたのか、なにか理由があるはずだが、人はそこに不思議ななにかを求めてしまう。それはガラスなどのワレモノとは異なり、しゃぼん玉が一滴の液体から生まれた実体のおぼつかないものであることが大きい。今年は凍っていくしゃぼん玉の映像が評判となった。美しくはあったが、それに違和感を覚えたのはしゃぼん玉に形を与えてしまうことへの不自然さなのだと気づいた。しゃぼん玉は、無にもっとも近い存在でなければいけないのだと思う。空に放たれ、震えるようにはじけていく。それらはまるで壊れやすさまでもが美の一端となっている。〈雪兎勝手に溶けてしまひたる〉〈生ビールいつも地球のどこか夜〉『市川葉俳句集成』(2016)所収。(土肥あき子)


February 0722016

 春林の遠空を見つ帯を解く

                           飯田龍太

書に、四万温泉三句とある一句目です。男の句だなと思います。それは、「春林」に漢詩っぽい語感があり、「遠空」に青年的な眼差しがあり、「見つ」「解く」にきっぱりとした切れ味があるからです。いまだ寒き早春の空の下で、素っ裸になっていざ湯に入らんとする無邪気な意気込みがあります。それは、二句目につながります。「娼婦らも溶けゆく雪の中に棲み」。昭和三十年の作で、売春防止法が施行される二年前なので、娼婦という言葉も存在も、とくに温泉地ではふつうのことだったのでしょう。娼婦たちが雪の中の温泉で浄化されているであろう様を、男目線で描いています。三句目は、「男湯女湯の唄睦み合ふ雪解川」です。板塀で仕切られた露天も、女湯からは娼婦らの唄が聞こえてきて、そのうちに睦み合うように声が重なり合います。湯は仕切られていても、唄で混浴している風流。これが、戦後十年のこの時代のきれいな遊びだったのでしょう。うらやましい。『飯田龍太集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)




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