hノ男句

February 2422016

 荒畑を打つや突風兒を泣かせ

                           鷲巣繁男

役を終えて戦後帰還した繁男は、北海道に開拓者として入植した。農民出身でなかった本人も家族も、酷寒の地で開拓者として生きたことは想像を絶する。突風のなかに兒を置いたまま、荒地を開墾し荒畑の耕作に精出さざるを得なかった。その時代のことを詠んでいる。中国戦線で羅病して、市川市の国府台陸軍病院入院中に俳句を始めたらしい。樽見博によると「富澤赤黄男が創刊した「火山系」の同人であった」。赤黄男の「天の狼」刊行の実務にかかわった一人である。のち繁男は北海道から大宮へ移った。そのころ私は編集者として初めてお目にかかった。そのときのことをはっきり記憶している。市ヶ谷駅まで出迎え会社まで一緒に歩いた10分間、なぜか黒いタキシードを着た彼は、休むことなく息切らせながらしゃべりつづけた。その後、『記憶の書』や『詩の榮譽』をはじめ何冊かを私は編集担当したが、彼の超ロングの電話には、勤務中何回も付合わされた。それは知る人ぞ知るで、同じことを言う人は他にも多かった。そのことも含めて、今や懐かしい稀有なる超人であった。赤黄男のことはよく聞かされた。他に「切株に兒が泣きのこる畝畦幾重」があり、舊句帖『石胎』がある。「鬣」57号(2015)所載。(八木忠栄)




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