2016N53句(前日までの二句を含む)

May 0352016

 萌えに萌ゆ八十八夜の大地かな

                           竹内正與

岡生まれゆえ、朝な夕なに茶畑を見て育った。山腹を幾本も横切る茶畑が摘み頃になると、まるで大きな若草色の芋虫がごろりと横たわっているように見える。掲句の「萌えに萌ゆ」は土地への讃歌であり、大気がいま、あらゆる若葉の生気に満ちていることを予感させる。今年の八十八夜は5月1日だったが、ふるさとではきっと八十八夜の茶摘みが行われていたことだろう。つやつやと輝く美しい茶の新芽がやわらかに摘み取られていくと、山はすっぽりと茶の芳香に包まれる。新茶を入れるときに漂う香りは茶山の大地が立てる香りでもある。『鰯雲』(2016)所収。(土肥あき子)


May 0152016

 掌になじむ急須や桜餅

                           小寺敬子

本の日常です。しかし、桜餅をいただく儀式のようでもあります。桜餅をおいしくいただくためには、万古焼きの急須で、緑茶の旨味を引き出さなくてはなりません。そう思うと、かつては当たり前だった午後のひとときや来客へのおもてなしが、今では特別の所作になっているように思われます。コーヒーを入れるときも紅茶を入れるときも、ポットの取っ手を握って湯を注ぎます。両方とも高温でこそ香りと味わいが届きます。それに対して緑茶の場合、熱湯も一度茶碗で冷ましてから湯を入れるので 、ゆっくりじっくり茶葉の開きをしばらく待って、急須が掌になじみはじめて茶をいただく頃合いとなります。茶人によれば、お茶はゆっくり入れて、最後の一雫まで出し切ることがおいしいお茶のコツと聞きました。あらためて掲句を読むと、描かれている全てが掌の中に納まっています。句は、ここで完結していながら、これから桜餅の甘みが舌に届いて緑茶の渋みがその甘みを抑制しつつ、また一口、桜餅をいただくうれしさを予感させています。掌の中にあるしあわせ。これは、俳句サイズのしあわせです。そして、たぶん、多くの人が、これくらいの、掌くらいのしあわせを、しあわせというように思います。『花の木』(2002)所収。(小笠原高志)


April 3042016

 ゆく春の耳掻き耳になじみけり

                           久保田万太郎

日でなにかと慌ただしかった四月が終わる。いつもながら四月は、春を惜しむ感慨とは無縁にばたばたと過ぎて、ゴールデンウイークでちょっと一息つくと立夏を迎えてしまう。春まだ浅い頃、ああもう春だなあ、と感じることは目まぐるしい日常の中でもよくあるけれど、過ぎ行く春を惜しむ、というのは余裕がないとなかなか生まれない感情のように思っていた。しかし掲出句は、耳掻きで耳掃除をするという小さな心地よさを感じながら、淡々とゆく春に思いをはせている。さらに、ゆく、という仮名のやわらかさが、ことさら惜しむ心を強調することなく、再び巡ってくるであろう春を穏やかに送っていて不思議な共感を覚える。『俳句歳時記 第四版』(2008・角川学芸出版)。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます