2016N58句(前日までの二句を含む)

May 0852016

 夏来たる草刈り鎌で縄を切り

                           池田澄子

が来た、と感じるのはどんな時でしょう。衣替え、クールビズ、電車の中で半袖姿が目立ち初めた時。「冷やし中華始めました」のポスターが貼られ、麦茶で喉を潤す時。クーラーをつけるにはまだ早いけれど、網戸で風を入れる時。今年はいつ、どこのビアガーデンに行こうかと考え始める時。一方、掲句の場合、自らの手で夏の到来を宣言していて強い。上五はふつうに始まりながら、中七以下の言葉遣いは文字通り切れ味が鋭い。語の選び方と組み合わせが抜群です。なかでも「縄」に注目します。この縄は、どんな用途で使われたのか。縛ったのか、束ねたのか、仕切りなのか、巻いたのか。繋いだのか、吊るしたのか。句では、そんな実用性よりも、縄を切ることで季節の円環を一度断ち切って、新しい一季節を迎えようとする象徴として、とらえられます。これから田植えが始まり、やがて、収穫された稲藁は干され、より合わされて縄になります。それを切り、夏を迎える。これはまた、一年かけて稲を使い切ったということにもなるのでしょう。「たましいの話」(2005)所収。(小笠原高志)


May 0752016

 手を空にのばせば我も五月の木

                           飯田 晴

誦していたつもりだった掲出句だがいつのまにか、空に手をのばせば我も五月の木、と覚えていた、まことに申し訳ないと同時にあらためて自らの言語センスのなさを実感している。手を空に、だからこそ初夏の風を全身で受け止めながら立つ作者の、思い切り伸ばした指の先の先が空にふれようとしているのが見える。五月の空は澄みきっている日ばかりではないけれど、この句にあるのは空から木々へ渡り来る新緑の風だ。掲出句が生まれてから十年ほどの月日が流れていると思われるが、また新たな風を感じながら、その手を五月の空へ大きく伸ばしている作者であるに違いない。『たんぽぽ生活』(2010)所収。(今井肖子)


May 0652016

 昼を打つぼんぼん時計鴉の巣

                           近本セツ子

は春先から繁殖期に入り、大木の高い所に小枝を椀状に編み上げて五十センチ程の大きな巣をつくる。前年の巣を利用してより大きくなった巣もある。そんな鴉の巣が見える人家がある。忙しなくデジタルに展開する世間を他所に、そこには取り残された様なゆっくりとした時間が流れる。壁の柱のぼんぼん時計もその象徴の一つだろう。広い家の庭からは梢に出来た鴉の巣が見える。戸主が居て長男が後を継ぐ世界を経て来た。恐らくは大家族の時代があったろう。それも今は昔、若い者が次々と都会へ出て、この家の家族構成も移り変わった。少人数世帯、老人だけが居残っただろうか。相変わらずのアナロク時計がボンとなり昼を告げた。<冬草や時計回りの散歩道><木の国の春の音かも時計鳴る><壊れたる銀の時計に春遅々と>。俳誌「ににん」(2015年春号)所載。(藤嶋 務)




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