2016N511句(前日までの二句を含む)

May 1152016

 筍を隠す竹林ぶおと鳴る

                           八木幹夫

の季節はもう終わりだろうか。それにしても「筍が好き」という人はあっても、逆に「筍は嫌い」という人に出会ったことはない。タケノコ、もって瞑すべし。小生も御多分に洩れず、筍の時季にはわしわしと一年分を食べてしまう。ナマでよし、煮てよし、焼いてよし、である。掲出句は、まだ筍が土からアタマをのぞかせるか否かの時季の景であろう。(地上に出た筍を盗難されないように、枯葉や草で隠すケースも考えられるが、ここではそうは解釈しない。)湿った竹林のあちこちで、「これから地上に出るぞよ。用意はよいか。」と言って「ぶお」という音があがり始めているのであろう。筍の可愛いオタケビが聞こえてくるようだ。唐鍬を担いで、ものども竹林へ走れ!である。武満徹は「尺八の音は、竹林を吹き抜けてくる風の音である」という名言を残したが、筍も子どもなりに一丁前に「ぶお」と幼い声をあげているのだろう。今年も筍を買ったり頂いたりして、たっぷりご馳走さまでした。幹夫(俳号:山羊)には他に「野苺の闇まっすぐに我に来る」がある。89句を収めた手作りの山羊句集『海亀』(2016)所収。(八木忠栄)


May 1052016

 龍天に登る背中のファスナーを

                           嵯峨根鈴子

は春分の頃に雲を引き連れ天へと登り、秋分の頃に地に下り淵に潜むとされる。中国後漢時代の字典による俳人好みの季題である。しかし、作者は伝説上の生きものをとことん身近に引き寄せる。あるときは背中のファスナーに住みつき、またあるときは〈龍天にのぼる放屁のうすみどり〉と、すっかり飼いならされた様子となる。今頃はおそらく作者の家の欄間あたりに身を寄せているのではないか。なんというファンタジー、なんという愉快。目を凝らせばこのような景色が見えるのかもしれないと、慌てて見回してみれば梅雨入り間近の猫がひきりなしに顔を洗っているばかりである。〈ラムネ壜しぼれば出さうラムネ玉〉〈わたむしに重力わたくしに浮力〉『ラストシーン』(2016)所収。(土肥あき子)


May 0852016

 夏来たる草刈り鎌で縄を切り

                           池田澄子

が来た、と感じるのはどんな時でしょう。衣替え、クールビズ、電車の中で半袖姿が目立ち初めた時。「冷やし中華始めました」のポスターが貼られ、麦茶で喉を潤す時。クーラーをつけるにはまだ早いけれど、網戸で風を入れる時。今年はいつ、どこのビアガーデンに行こうかと考え始める時。一方、掲句の場合、自らの手で夏の到来を宣言していて強い。上五はふつうに始まりながら、中七以下の言葉遣いは文字通り切れ味が鋭い。語の選び方と組み合わせが抜群です。なかでも「縄」に注目します。この縄は、どんな用途で使われたのか。縛ったのか、束ねたのか、仕切りなのか、巻いたのか。繋いだのか、吊るしたのか。句では、そんな実用性よりも、縄を切ることで季節の円環を一度断ち切って、新しい一季節を迎えようとする象徴として、とらえられます。これから田植えが始まり、やがて、収穫された稲藁は干され、より合わされて縄になります。それを切り、夏を迎える。これはまた、一年かけて稲を使い切ったということにもなるのでしょう。「たましいの話」(2005)所収。(小笠原高志)




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