2016N524句(前日までの二句を含む)

May 2452016

 両腕は翼の名残夏野行く

                           利光釈郎

と翼と鰭はみんな同じものだという。腕は翼として羽ばたいていたかもしれず、鰭として大海原を泳いでいたのかもしれない。夏野の激しいエネルギーのなかに身をおけば、人間としてのかたちがほんの束の間の仮の姿のようにも思えてくる。男でも女でも、大人でも子どもでもなく、ずっと自由な生きものとして夏野を行く。しかし、ひとたび夏野を出れば、また元のきゅうくつな人間に戻ってしまうのだ。夏の野が見せる束の間の夢である。〈葱坊主みんな宇宙へ行くごとし〉〈万緑へ面打つ鑿をそろへけり〉『夏野』(2016)所収。(土肥あき子)


May 2252016

 真清水や薄給の人偉かりし

                           田中裕明

の前の真清水に見入っています。濁りなく、たゆむことなく、少しずつこんこんと透明な清水が湧きあがっている。そこに、地球のささやかな鼓動を見ているのかもしれません。この時、かつて、薄給を生きていた人を思い出しました。それは、父であり、父の時代の人たちです。給料が銀行振込になった1980年代以降も、給料が高い低いという言い方は変わっていませんが(例えば高給取りとか、高給優遇とか、低所得者とか、低賃金など)、一方で、給料袋を手渡されることがなくなったので、その薄さを形容する薄給という言葉は無くなりました。ところで、薄給という言葉には、清貧の思想が重なります。あぶく銭で儲けるのではなく、自分の持ち場を離れず誠実に役割を果たす。しかし、小さな成果だから、労働対価は微々たるもの。けれども、誠実な仕事人は、少ない給料を知恵を使ってやりくりして、無駄のない質素な生活を営みます。ゴミを出さず、部屋の中もすっきり整頓されて、ぜい肉もない。薄給を手にしていた人たちは、それが薄くて軽いぶん、むしろ、手を自由に使えました。針仕事をしたり、日曜大工をしたり、手料理を作ったり。今、真清水を目の前にして、生きものは、清らかな水があれば何とかなる、作者は、そんな思いを持った。『夜の客人』(2005)所収。(小笠原高志)


May 2152016

 書くほどに虚子茫洋と明易し

                           深見けん二

年冬号を以て季刊俳誌「花鳥来」(深見けん二主宰)が創刊百号を迎えられた。その記念として会員全員の作品各三十句(故人各十五句)をまとめ上梓された『花鳥来合同句集』は、主宰を始め句歴の長短を問わず全員の三十句作品と小文が掲載されており、主宰を含め選においては皆平等な互選句会で鍛錬するというこの結社ならではの私家版句集となっている。掲出句はこれを機会に読み返してみた句集『菫濃く』(2013)から引いた。作者を含め、虚子の直弟子と呼べる俳人は当然のことながら少なくなる一方であり筆者の母千鶴子も数少ない一人かと思うが、その人々に共通するのは、高濱虚子を「虚子先生」と呼ぶことだ。実際に知っているからこそ直に人間虚子にふれたからこそ、遠い日々を思い起しながら「虚子先生」について書いていると、そこには一言では説明のできない、理屈ではない何かが浮かんでは消えるのだろう。茫洋、の一語は、広く大きな虚子を思う作者の心情を表し〈明易や花鳥諷詠南阿弥陀〉(高濱虚子)の句も浮かんでくる。(今井肖子)




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