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May 2752016

 目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹

                           寺山修司

とは、タカ科の比較的小さ目のものを指す通称である。タカ科に分類される種にて比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカとざっくりと呼び分けているが、明確な区別ではない。日本の留鳥としてオオタカ、ハイタカ、クマタカなどの種がいて、秋・冬には低地でみられる。冬の晴れ渡る空に見つけることが多いので鷹だけだと季語は「冬」の部である。荒野を目指す青春の空に大きく鷹が舞っている。五月のエネルギーが、羽ばたけ、羽ばたけと青年の心を揺さぶる。飽きずに眺める大空には舞う鷹、目をつむっても残像が舞っている。今この新緑の中に何かに魅せられた様に多くの青年達が旅立ってゆく。青年修司は二十歳で俳句を断ち別の思念へと旅立って行った。他に<恋地獄草矢で胸を狙い打ち><旅に病んで銀河に溺死することも><父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し>など修治の青春性が残されている。「俳句」(2015年5月号)所載。(藤嶋 務)


May 2652016

 噴水の奥見つめ奥だらけになる

                           田島健一

の季語の噴水といえば、水を噴き上げるその涼しげな姿を詠むのが定石。それがこの句は噴水の水盤の奥を見つめているのだろうか。変化をつけながら水しぶきを上げて舞う噴水の穂先の華やかさに比べ、落ちる水を受け止める黒っぽい敷石は水面の変化を受け止めながらも不変である。じっと見つめていると視界そのものが「奥だらけになる」見つめている側の感覚に引き込まれてゆくようで私には面白く感じられるが「噴水の奥ってどこ?」「奥だらけって何?」と戸惑う読み手も多いだろう。季語の概念にとらわれずに対象を自身の感覚で捉えなおすことは多数の俳人が詠み込んでゆくなかで季語に付与された本意本情と考えられているものをいったん脱ぎ捨てることでもある。共感を呼び込むには難しいところで勝負している句かもしれない。「オルガン」2号(2015)所載。(三宅やよい)


May 2552016

 陵(みささぎ)の青葉に潮の遠音かな

                           会津八一

書に「真野」とある。佐渡の真野にある順徳天皇の御陵を詠んでいる。承久の変(1221)により、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、その皇子である順徳天皇は佐渡へ流された。天皇は二十一年後、佐渡で崩御する。そういう歴史をもつ御陵を、八一は青葉の頃に訪れたのであろう。往時を偲ばせる木々の青葉が繁っている、その間を抜けて海の波音が遠くから聞こえてくる。それは遥かな歴史の彼方からの遠音のように聞こえ、八一の心は往時に遡り、承久の変に思いを致し、順徳天皇が聞いたと変わらぬ波音に、今はしみじみと静かに耳をかたむけるばかりである。八一の句は他に「灌仏や吾等が顔の愚かなる」など多い。上記いずれの句からも、私は新潟市にある会津八一記念館に掲げられている、凛として厳しさをたたえた八一の肖像写真を想起せずにはいられない。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)




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