2016N61句(前日までの二句を含む)

June 0162016

 馬洗ふ田川の果の夕焼(ゆやけ)雲

                           岩佐東一郎

日ではほとんど見られなくなった光景である。田の農作業が終わって、暑さでほてり、汗もかいてよごれた馬を、田川で洗っている。その川はずっと遠くまでつづいていて、ふと西の方角を見れば夕焼雲がみごとである。馬も人もホッとしている日暮れどきである。ここでは「馬洗ふ」人のことは直接触れられていないけれど、一緒に労働していた両者の心が通っているだろうことまでも理解できる。馬だけではなく、洗う人も水に浸かってホッとしているのだ。遠くには赤あかと夕焼雲。「馬洗ふ」には「馬冷やす」「冷し馬」などの傍題がある。かつて瀬戸内海地方には陰暦六月一日に、ダニを洗い落とすために海で牛を洗う行事があったというが、現在ではどうか? 掲出句はその行事ではなくて、農作業の終わりを詠んだものであろう。詩人・岩佐東一郎には「病める児と居りて寂しき昼花火」がある。加藤楸邨には「冷し馬の目がほのぼのと人を見る」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 3152016

 植田から青田に変はる頃の風

                           名村早智子

年前に流れていたエビスビールのコマーシャルに「日本は風の名前だけでも2000もある国です」というコピーがあった。2000という数字に驚くが、しかし掲句のように名称はないが誰もが明瞭に描くことができる風がそのうえまだある。西洋に「刈りたての羊に風はやさしく吹く」の言葉があるように、頼りなくそよぐ植田に風はなでるように通り過ぎ、元気いっぱいの青田には隅々まで洗い上げるように行き渡る。幼な子が子どもになるまでのほんの束の間、そのとっておきの風は渡る。それはまるで、太陽と大地を両親に持つ苗の健やかな呼吸が、清潔で、みずみずしく、明るい風になっていくようにも思われる。その時期だけの旬の食べ物があるように、その時にしか吹かない旬の風を胸いっぱいに満たしたい。ふらんす堂自句自解2ベスト100『名村早智子』(2016)所収。(土肥あき子)


May 2952016

 不器用は/如何なる罪ぞ/五月闇

                           鵜澤 博

かに怒っています。手先の不器用さにではありません。自分が、あるいは目をかけている人が、人間関係に不器用なんでしょう。相づちを打てない。愛想笑いをしない。納得のいかない意見には同意しない。旧態依然の悪弊には従えない。この、真っ当な心根のどこが罪なのか、と問うています。ところで、五月闇は、梅雨時の夜、月明かりが厚い雲に隠された闇のことです。ここから、昼の闇にも汎用される使われ方もありますが、掲句の場合は心象風景の闇でしょう。かつて、受験勉強で燃え尽きた新入生は、学生生活にすぐにはなじめず、五月病にかかりました。五月闇は、同じ心のやみですが、それとはちょっと違った意味合いがあります。新入社員たちは新人研修を終えて、それぞれの部署に配属されました。そこには独自の社内ルールが適用されていて、一般常識からみれば到底受け入れることのできない掟に縛られていることもあるでしょう。その現実に直面したとき、純粋さは、不器用さとしてもて余されてしまう。21世紀を迎えても、湿潤な気候風土の日本の社会には、五月闇が存在しています。なお、句集の表記は、横書き三行分けです。『イヴ仮説』(2002)所収。(小笠原高志)




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