2016N63句(前日までの二句を含む)

June 0362016

 葭切や葭まつさをに道隠す

                           村上鞆彦

切、特にオオヨシキリは夏場九州以北の低地から山地のヨシ原に渡来し、海岸や河口の広いヨシ原では多く見られる。おすは葭の茎に体を立ててとまり、ギョッギヨッシ、ギョッギヨッシと騒がしく囀る。その鳴き声から行行子(ぎょうぎょうし)の別名がある。ふと命の出し惜しみをして生きている吾身を反省する。最後に精一杯叫んだのは何時の事か記憶にない。甲高い鳴き声に一歩葭原に踏み入れてみても道は隠され、茂みの深さの為に中々営巣には近付けない。ただまつさをな葭原の只中に耳を聳てて聞き入るばかりである。因みにコヨシキリは丈の高い草原にすみ細い声で囀る。他に<花の上に押し寄せてゐる夜空かな><投げ出して足遠くある暮春かな><枯蟷螂人間をなつかしく見る>などあり。「俳句」(2013年8月号)所載。(藤嶋 務)


June 0262016

 とほくに象死んで熟れゆく夜のバナナ

                           岡田一実

の少年雑誌に象牙の谷の話があった。象は自分の死に時を悟ると自ら身を隠し象の墓へ向かう。密林の奥深くあるその場所は象牙の宝庫だという話。本当に象がそんな死に方をするかはわからないが揚句の象はそんな野生の象だろうか。バナナと象は時間的、空間的、離れていて因果関係もない。しかし両者が「で」という助詞で接続されると大きな象の死とバナナの房が黄色く熟れてゆくことに関係があるように思えてしまう。死んだ象とバナナに夜はしんしんと更けてゆく。密接すぎても陳腐だし離れすぎても理解しがたい。そして何よりも句を生み出す根底に切実さがないと言葉は働いてくれない。そんなことを考えさせられる一句だ。そういえば井之頭公園の象のはな子も死んでしまった。空っぽの象舎を見るたび最後に横たわっていた姿を思い出しそうだ。『関西俳句なう』(2015)所載。(三宅やよい)


June 0162016

 馬洗ふ田川の果の夕焼(ゆやけ)雲

                           岩佐東一郎

日ではほとんど見られなくなった光景である。田の農作業が終わって、暑さでほてり、汗もかいてよごれた馬を、田川で洗っている。その川はずっと遠くまでつづいていて、ふと西の方角を見れば夕焼雲がみごとである。馬も人もホッとしている日暮れどきである。ここでは「馬洗ふ」人のことは直接触れられていないけれど、一緒に労働していた両者の心が通っているだろうことまでも理解できる。馬だけではなく、洗う人も水に浸かってホッとしているのだ。遠くには赤あかと夕焼雲。「馬洗ふ」には「馬冷やす」「冷し馬」などの傍題がある。かつて瀬戸内海地方には陰暦六月一日に、ダニを洗い落とすために海で牛を洗う行事があったというが、現在ではどうか? 掲出句はその行事ではなくて、農作業の終わりを詠んだものであろう。詩人・岩佐東一郎には「病める児と居りて寂しき昼花火」がある。加藤楸邨には「冷し馬の目がほのぼのと人を見る」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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